「諸概念の迷宮(Things got frantic)」用語集

本編で頻繁に使うロジックと関連用語のまとめ。

【長い19世紀と短い20世紀】産業革命展開期(18世紀〜1914年)

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ホブズボーム区分上の「資本の時代1848年 - 1875年)」と「帝国の時代1875年 - 1914年)」に該当。

ホブズボーム区分上の資本の時代1848年 - 1875年

フランス第二共和政の成立、またドイツ三月革命の勃発をきっかけに、ヨーロッパは再編されていく。イギリスはパクス・ブリタニカ謳歌し、ドイツとイタリアは国内を統一、ロシアはアレクサンドル2世のもと改革を進めていく。また産業革命の結果、鉄道網の建設やスエズ運河の開通などインフラが整備され、ブルジョワジー階級がヨーロッパ世界を動かすようになる。

ホブズボーム区分上の帝国の時代1875年 - 1914年

ベルリン会議以降、ビスマルク体制によって平和がもたらされた。ブルジョワジー階級が推し進めた資本主義は、その膨大に蓄積された余剰資本の投下先としてアジア・アフリカの植民地を求めた。これが世界の分割を進める帝国主義となり、世界各地でのヨーロッパ列強の対立を招き、第一次世界大戦へ突入していく要因となる。

ホブズボームの歴史観とこのサイトの歴史観の最大の違いは以下。

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  • 産業革命自体は既に18世紀以前から(比較的展開上の阻害要因が少ない)スイスや英米で始まっていたと考える。

  • その歴史的流れ自体には絶対王政下フランスも相応にはかろうじて追随していたものの、革命とナポレオン戦争を通じての破壊によって大英帝国に二度と追いつけなくなる大打撃を受ける。ただし復興の過程で樹立された「(産業革命導入上の阻害要因が多い後進国産業革命を導入する為の方法論」の導入によって米国やドイツ帝国大日本帝国および後世の中国やベトナムなどが農本主義的伝統から脱し工業国の仲間入りを果たす。

そう考えるとこの歴史区分は時期的にホブスホームの歴史観マルクス=レーニン主義史観)上の時間区分と重なりつつ、その内容はほとんど別物といってよい。
*特に「究極の自由主義専制の徹底によってのみ達成される」ジレンマの担い手が絶対君主から(大量の没落貴族層を吸収した)大衆消費者に移行したという考え方の採用が大きな差分を生み出す結果に。

 

    • フランスにおける「白旗組王党派」と「赤旗急進共和派」の自滅…フランスでは「国王や教会の権威を笠に着た領主が領土と領民を全人格的に代表する時代」が終焉してなおブルジョワ王侯貴族や教会有力者、およびそうした人物と縁戚関係にある素封家)による富の独占状態が続いた。その事への反感が赤旗組(急進派共和主義や共産主義者)を勢いづかせたが、皮肉にも彼ら同様に白旗組(王党派やカソリック勢力)もまた自打球の連続によって滅んでいく。

    • 各国におけるブルジョワ階層の台頭…大陸の産業革命は事実上、復古王政時代(ウィーン体制)がもたらした停滞を尻目にスイスやベルギーといったその影響下にない「僻地」で始まった。

      それに追いつかんとしてフランスでは「馬上のサン=シモン」ルイ・ボナパルト大統領/皇帝ナポレオンが産業革命導入に成功して所謂「ブルジョワ二百家」による寡占化が始まる。

      また英国では(巻き添えでスタグフレーション状態に苦しめられたフランスで二月/三月革命が勃発した遠因の一つに数えられる穀物法(1815年〜1846年)撤廃を契機としてジェントルマン階層が「単に地主でありあるばかりではリスクヘッジが十分でない」と考える様になり、金融業界に進出。

      ドイツでも1871年ドイツ帝国成立以降、プロイセン王国への将校と官僚の供給階層として発展してきたユンカーがドイツ帝国全体への将校と官僚の供給階層へと躍進を遂げる。

      *「領主が領土や領民を全人格的に代表する農本主義的体制」からの脱却が不十分なまま資本主義的発展が始まると、王侯貴族や聖職者といったランティエ(rentier=不労所得階層)が大ブルジョワ階層に、軍人や官僚や法律家などが中小ブルジョワ階層にシフトする事が多い気がする。ただ後者については、同様の傾向が「ジェントルマン資本主義」の英国や「薩長土肥閥+旧幕臣」中心に編成された明治政府にも見て取れるし、前者についても「あけっぴろげに傲慢に振舞うか、こそこそ裏で賢く立ち回るかの違いに過ぎない」なんて辛辣な意見も存在する。

  • 大不況 (1873年〜1896年) と米国金鍍金時代と欧州ベル・エポック時代…しかし産業革命の各国への波及は商品の供給量過多を引き起こす。さらにアメリカン・ペリル(American peril、輸送網整備と冷蔵技術の進化によって南北アメリカから輸入される様になった安価な農畜産物の欧州大襲来)が重なった為に各国が競い合う様に関税障壁を高合ったので1873年から1896年にかけて大不況状態が続く事になった。しかしやがて「大量生産には庶民の消費者化といった方策によって大量消費が伴わねばならない」なる処方箋が広まって未曾有の大量消費時代が到来。

  • ドイツにおけるマルクス主義の変容と帝国主義の台頭…建国時にプロイセン宰相ビスマルクと労働運動主導者ラッサールが手を組んだドイツでは国家福祉主義が台頭。暴力革命論が完全に影を潜める一方で英国やフランスの様な植民地拡大を羨む声が広がっていく。

  • 取り残される欧州東部とオスマン帝国農奴制解体以降もオーストリアハンガリー二重帝国や東欧諸国やロシア帝国オスマン帝国農本主義的分権体系は簡単には払拭出来なかった。結局それが達成されるのは第一次世界大戦1914年〜1918年)以降となる。

大不況 (1873年〜1896年) を間に挟み、前半は産業革命導入に伴うブルジョワ経済の発展期、後半は大衆消費社会の到来期と目される。その一方で大不況 (1873年〜1896年) から列強間における植民地獲得戦争が激化したと指摘する向きもある。最終的に総決算的に第一次世界大戦1914年〜1928年)が勃発してしまう。