「諸概念の迷宮(Things got frantic)」用語集

本編で頻繁に使うロジックと関連用語のまとめ。

【用語集】「ティンダロスの猟犬」について。

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話師:罪を知るものに罪はない。これは「罪の輪」という謎かけだ。考えてみなさい。『罪を知るものに罪はない。では汝に問う。汝は罪人なりや?』
ラッカ:わたしは繭の夢がもし本当なら、やはり罪人だと思います。
話師:ではお前は罪を知るものか?
ラッカ:だとしたらわたしの罪は消えるのですか?
話師:ならば、もう一度問う。罪を知るものに罪はない。汝は罪人なりや?
ラッカ:罪がないと思ったら今度は罪人になってしまう。
話師:おそらく、それが罪に憑かれるということなのであろう。
ラッカ:罪のありかを求めて同じ輪のなかを回り続け、いつか出口を見失なう。どう答えればいいんですか?
話師:考えなさい。答えは自分で見つけなければならない。

私は安倍吉俊灰羽連盟(Ailes Grises,アニメ化2002年)の大ファンで、このスコラ学的命題「罪を知る者に罪はない。ならば汝の罪は何か」にすっかり魅了されてしまったのです。

以下もその関連投稿となります。

ティンダロスの猟犬」とは何者か?

クトゥルフ神話に登場する生物。名前は「ティンダロスより来たる、猟犬のように追い立てるもの」の意で、初出作品はフランク・ベルナップ・ロング(Frank Belknap Long Jr, 1903年~1994年)の「ティンダロスの猟犬(The Hounds of Tindalos,1929年)」。作中の人物が、自分を獲物にしようとしている存在に対して忌々しく「ティンダロスの猟犬め」と呟いた事から名付けられた。

アメリカのホラー小説家、SF作家、詩人。『スーパーマン』や『グリーンランタン』などのアメリカン・コミックスの原作を手がけたこともある。アメリカ合衆国ニューヨーク生まれ。ニューヨーク大学中退。「宇宙的恐怖(Cosmic Horror)」ジャンルの創始者ハワード・フィリップス・ラヴクラフトとの交友は双方のアマチュア時代から生涯にわたり、文字通り弟分ともいえる存在であった。

ウィアード・テイルズ』誌1924年11月号に "The Desert Lich" を発表してデビュー。以降、『ウィアード・テイルズ』および『アスタウンディング・サイエンス・フィクション』誌に精力的に寄稿。 クトゥルフ神話関連のものも執筆。生涯に25の小説、150の短編小説、8つの短編集、3つの詩集、その他多くのノンフィクションや漫画の原作を残した。

ロングのクトゥルフ神話第2作であり、怪物「ティンダロスの猟犬」の初出作品であり、日本では大瀧啓裕によって訳されたバージョンが青心社から出版された『クトゥルー5』に収録されている。

東雅夫は『クトゥルー神話辞典』にて、「角度を通って襲来する異次元の魔物という卓抜な着想で知られる、ロングの代表作」と解説している。

ラヴクラフトも直後にティンダロスの猟犬の設定を自作に輸入しており、神話に組み込まれている。

またロングも、本作の発表から55年後の1984に発表した"Gateway to Forever"(仮訳:永遠への戸口)に猟犬を再登場させているが、こちらの作品は日本では未翻訳。

 おそらくそれについて言及する事自体は不可能とされるおぞましくも怖ろしい行為により「空間=湾曲行為を通じて顕現する清澄なる曲線概念」と「時間=屈回行為を通じて顕現する不浄なる角度概念」が絶地天通状態を達成した結果、前者に由来する世界に生きる我々が真の意味で直線概念に到達する事が不可能となった様に、ティンダロスの住人は真の意味で曲線概念に到達する事が不可能となったのです。そしてそれ以降奴等(The Things)=ティンダロスの住人は、我々がかかる既存秩序を侵犯すると、必ずやその振る舞いを察知し番犬(The Hounds)として罰を与えるに現れる様になったのです(少なくともそう言う風に我々の側からは見える)。

  • そもそも、かかる「清澄」「不浄」観はあくまで我々側の主観に基づく恣意的解釈に過ぎず、彼らの側ではその価値観は完全に逆転している可能性も指摘されている。その争点自体が人間に理解可能な思考や道義の様式も善悪観も超越しており、彼らの側ばかりに正解があるとも限らないが、いずれにせよ彼らは我々にとってシステム的に「一度その興味を引くと時空を超越してどこまでも執拗に追い立ててくる脅威」として実在している訳である。時間遡行行為そのものばかりか、過去視や未来視によっても発見されるリスクが存在するから恐ろしい。

  • 絶地天通」は「国語楚語下楚辞に収録される歴史的単語。そもそも「易経」的二進法を基調とする中華文明圏の語彙においては「絶-地天-通」と「飛-行-機」「視-聴-者」の如く三文字熟語的シンコペーション(Syncopation=跳音)を刻む四文字熟語自体が極めて珍しく、しかもその用法自体が「華夷秩序=南方文化圏との峻別による中華文明中心主義アイデンティティの確立」に深く関わっているとあっては、その概念形成過程自体に奴等(The Things)すなわち「認識可能範囲外を跋扈する絶対他者(The Absolute without Cognizable)」との関係史を想定せざるを得なくなる。そもそも有体にいって「(アケメネス朝ペルシャの開闢に至るオリエント世界において一貫した独自性を維持する為に育まれ文献が積み上げてられてきた)ヘブライ中心主義民族アイデンティティギリシャ中心主義民族アイデンティティ」の様な諸概念もまた(概ね文化的に優位状態にある)中心勢力の拡散過程において、(距離的制約などの重複的理由によって)かろうじて即座に自動的に併呑される展開だけは免れ得た(日本や英国の様に一定規模の島国単位で自然形成されるケースを典型例とする)周辺勢力が対抗手段として形成してきたものであり、かかる概念の導入を求めるなら、いよいよ中国人もこの問題との直面が不可避となる訳である。

    臼と杵と天孫降臨と

  • ちなみに「ティンダロスの猟犬(The Hounds of Tindalos,1929年)」で標的とされる時間遡行者が時間遡行の手段として選んだのは神秘的な中国の幻覚剤「遼丹リャオタン)」の服用。「認識可能範囲外を跋扈する絶対他者(The Absolute without Cognizable)」との接触や技術的利用法が記されているとされる「ネクロノミコン (Necronomicon, 死霊秘法,西暦730年) 」原題「アル・アジフ(Al Azif)」をシリア・ダマスカスで執筆した「狂える詩人アブドゥル・アルハズレッドアブドゥル・アルハザード)もまた白昼の市街で衆人環視下「見えない怪物」に貪り食われる最後を遂げたとされ、そこには「宇宙的恐怖(Cosmic Horror)」ジャンルの創始者たるH.P.ラブクラフトクラーク・アシュトン・スミスの「千夜一夜物語(Arabian Nights,原典成立8世紀~9世紀頃、ガラン版翻訳1704年~1717年、バートン版翻訳1885年~1888年)」、ウィリアム・トマス・ベックフォードヴァセック(Vathek, 1786年)」、さらにはニューオリンズ在住時代のラフカディオ・ハーン(小泉八雲)が英訳を手掛け、H.P.ラブクラフトが耽美かつ繊細なエドガー・アラン・ポー的世界観から脱却する際に重要な示唆を得たとされるゴーティエ或る夜のクレオパトラ(Une nuit de Cléopâtre, 1838年)」といった異国情緒作品群への深い傾倒が見て取れる。この様に「宇宙的恐怖(Cosmic Horror)」ジャンルは、かかる「(欧州中心史観視点観点から出発した場合の反対側の極限としての)周辺文化」を当初の背景構造として出発しながら、その視線を(当時の作品群では辻褄を合わせるのも困難な情報断片としてのみ与えられてきただけだった)神話体系そのものに向け直す「位相幾何学的構造(Topological Structure)を維持したまの座標変換(Coordinate Transformation)」を経て「(アンソロジーを編纂して単行本として出版するのに向いたクトゥルフ」なる新ジャンルは産声を上げたのだった。

  • ここで意外と日本人が見落としがちなのが「宇宙的恐怖(Cosmic Horror)」ジャンルの創始者たるH.P.ラブクラフトにそれに向けての示唆を与えたラフカディオ・ハーン(小泉八雲)が「欧州文学が不完全な形でしか到達出来なかった深淵」の延長線を探す旅の果てに日本の伝承文学の世界に辿り着き、それを海外に積極的に紹介し続けた歴史。例えば、調布まで吹雪に閉ざされる世界週末的情景を背景に自然の神秘の象徴たる雪女がイケメンの樵(きこり)巳之吉をイケメン故に助命し、イケメン故に素性を隠して嫁入り指摘て子供まで生み、イケメン故に秘密を守るタブーを破られても殺さずそっと立ち去る「雪女(Yuki-onna, 1904年)」。どれだけイケメンだったんだ、巳之吉…日本の伝承文学の多くは「出雲国風土記(8世紀成立)」に最古形が残されている様に「神が末裔を現地に残して立ち去る在地有力者起源譚として成立したケースが多いので日本人自身は物語文法的にそれほどの新奇性を覚えないかもしれないが、伝統的タブーが多くここまで自由に発想を展開出来なかった当時の欧米幻想文学に与えた衝撃は計り知れない。あるいは衆道関係にある義兄弟との再会の約束を果たすべく、惜しみなく自らの命を捨てて幽霊となって帰還したパートナーの為に残された相方が復讐を果たす「守られた約束(Of a Promise Kept,1901年。元話は上田秋成「菊花の契」)。この作品が海外に与えた衝撃は「(クレオパトラ女王との目眩く一夜を代償に惜しみなく自らの命を捨てる青年を描いた或る夜のクレオパトラ」のさらに極限の領域まで踏み込んだ耽美譚として読まれた流れも抑えておかないと見落としてしまうし「ランドルフ・カーターの陳述The Statement of Randolph Carter, 1919年)」におけるランドルフ・カーターと親友にして神秘主義者のハーリー・ウォーリンウォーレン、ウォーラン)、「死体蘇生者ハーバート・ウェスト(Herbert West–Reanimator,1921年)」における狂科学者ハーバート・ウェストその無名の助手の関係に典型的な形で現れる様な死と狂気に至るブロマンス(Bromance)との連続性(おそらく同時代に手掛けたC.L.ムーアノースウェスト・スミス(Northwest Smith)シリーズ(1933年~1940年)における「宇宙一の荒くれ者」ノースウェスト・スミスとその「無駄にイケメンな金星人の相棒」ヤロールに次々と異世界の美しき怪物達が次々と襲いかかる世界観にも相応の影響を与えている)が見えてこない。そうまさに「毎回ありふれた勧善懲悪の観点からあっけなく倒し切られてしまうただの怪物」からの脱却こそが次世代に繋がったこの系譜の肝だったのであり、その過程において日本文化は思わぬ形で足跡を残してきたという訳である。

    ラフカディオ・ハーン「守られた約束」について

  • 一方、日本人は日本人で、第二次世界大戦後、便利過ぎた概念上の対立構造の調停手順(Mediation Protocol for Conceptual Conflict Structure)としての二諦論への過剰依存が大日本帝国時代末期における軍国主義への傾斜と密接に関わった事について相応の総決算を求められる展開を迎えたが、それは一部の浅薄なリベラル層が主張し実践する「軍事ファシズム/ナチズム独裁への忌避の徹底」によって達成可能なほど簡単な課題ではない。そもそもイタリアで共産主義が(それから別れ出たムッソリーニの興した)ファシズム運動に敗北し、ドイツのワイマール体制がナチズムに屈した最も重要な遠因の一つは、大日本帝国の様に版籍奉還(1869年)、廃藩置県藩債処分(1871年)、秩禄処分(1876年)といった政策を立て続けに成功させて江戸幕藩体制の残滓を不可逆的に一掃する展開を迎えられなかった事にあった。ならばとりあえずそれには成功した大日本帝国までどうして迷走を余儀なくされたのだろうか? もちろんこの分析にも「認識可能範囲外を跋扈する絶対他者(The Absolute without Cognizable)」概念の導入は不可避であり、そのうちどこまでが当時の時代精神(Zeitgeist)に属し、どこからが現在なお未解決の課題として残っているかについて慎重な峻別を必要とするのだった。

    三木清の「真俗二諦」の理解について

根が文系人間なので、正直こうした概念展開の方が得意分野。水を得た魚の様に筆が走りますが、しかしながら、こうした検討全ての出発点たるべき「真の絶地天通の境界線を見定める戦い」はその領域だけでは決して決着しないので、改めて陸に上がったペンギンに戻る覚悟を決めてヨタヨタと「数理(Mathematical Things)」の世界への上陸作戦へと這い戻らねばなりません。そうまさにポパー反証可能性Falsifiability)担保論を持ち出すまでもなく「誰も(計算自体は可能だが)何が正解かまでは分からない」冷徹な世界。そう「サイバネティックス概念の提唱者ノーバート・ウィーナーNorbert Wiener,1894年~1964年)ですら「誰も科学は最終的には分からん。せいぜい使い慣れるのが精一杯」と、すっかり匙を投げた世界へ…

第一の点は、〈数学の概念は、まったく予想外のさまざまな文脈のなかに登場してくる〉ということ。
The first point is that mathematical concepts turn up in entirely unexpected connections.
しかも、予想もしなかった文脈に、予想もしなかったほどぴったりと当てはまって、正確に現象を記述してくれることが多いのだ。
Moreover, they often permit an unexpectedly close and accurate description of the phenomena in these connections.
第二の点は、予想外の文脈に現れるということと、そしてまた、数学がこれほど役立つ理由を私たちが理解していないことのせいで、〈数学の概念を駆使して、なにか一つの理論が定式化できたとしても、それが唯一の適切な理論なのかどうかがわからない〉ということ。 
Secondly, just because of this circumstance, and because we do not understand the reasons of their usefulness, we cannot know whether a theory formulated in terms of mathematical concepts is uniquely appropriate.
この二つの論点をさらに言い直すと〕第一の点は〈数学は自然科学のなかで、ほとんど神秘的なまでに、途方もなく役立っているのに、そのことには何の合理的説明もない〉ということ。
The first point is that the enormous usefulness of mathematics in the natural sciences is something bordering on the mysterious and that there is no rational explanation for it.
第二の点は〈数学の概念の、まさにこの奇怪な有用性のせいで、物理学の理論の一意性が疑わしく思えてしまう〉ということ。
Second, it is just this uncanny usefulness of mathematical concepts that raises the question of the uniqueness of our physical theories.

近代に至るまでは「(全ての誤差を克服する方法さえ見つかれば)あらゆる計測結果が最終的には一致する筈」なる信念こそが科学研究の原動力となっていた側面が確実にあったのですが、今日ではその維持自体が難しくなってきているという訳です。まさしく「ティンダロスの猟犬」との接戦を余儀なくされそうな展開ですね。

ティンダロスの猟犬」概念を巡る数理

さて上掲の「名状しがたき怪物(The Unnamable)名状(name)し得た時、既にそこには存在しない」概念に従って上掲の情報をフィルタリングすると、概ね以下の情報くらいしか残りません。

  • 世界の外側を「認識可能範囲外を跋扈する絶対他者(The Absolute without Cognizable)」が不可視の状態で徘徊している(疫病や放射能、さらには呪術の領域まで含めコンセンサスとして共有可能で対応策も一応は相応に固まっている脅威はこの範疇に含まれない)。
  • ある種の円形(Circle)/球面(Sphere)防御(Deffence)が、それの世界の内側への侵入を防ぐ(対応策が呪術的でも衛生学的でもない事が重要)。

そう、何よりもまず要となるのは「とりあえず外部から侵入を試みてくる脅威に対して安全地帯を確保する円形(Circle)/球面(Sphere)防御(Deffence)の設定。上田秋成雨月物語1768年~1776年)」「吉備津の窯」において陰陽師が構築する「呪札による霊的防衛網」や小泉八雲耳なし芳一(1904年)」に登場する「全身に筆描記された経文」の20世紀版という訳です。

  • 小説「ティンダロスの猟犬(The Hounds of Tindalos,1929年)」で標的とされる時間遡行者は、部屋の内側の角を石膏で塗り固めた「丸い空間」に閉じこもる。ところが数日後、町を襲った地震によって石膏が剥がれ落ちて角度が露出し、彼の希妙な他殺死体が発見される。

  • この時代の想像力が比較的到達しやすかった恐怖概念だったらしく江戸川乱歩の短編怪奇小説鏡地獄(1926年)」にも「球体の鏡」がアイテムとして登場する。乱歩によれば科学雑誌科学画報」の質疑応答欄における「球体の内面を全部鏡にし、その中に人が入ったらどのように写るでしょうか」なる質問から得た着想で、その概念に恐怖した乱歩はそれに幽閉されて発狂に追い込まれる人物を描いたのである。

  • 江戸川乱歩は観測不能の暗黒惑星が目に見える惑星の軌道を狂わせる概念に注目した「暗黒星(1939年)」や、パースの狂いが中に足を踏み入れた人々の不安を煽る「三角館の恐怖(1951年)」の様な科学的概念そのものが恐怖を煽る構造を採用した作品も発表している。神経症的閉塞感や幻惑感を映像化したドイツ表現主義映画の金字塔「カリガリ博士(Das Cabinet des Doktor Caligari, 1920年)の登場は、とりあえず「不安を煽る照明や影絵」を採用した鈴木澄子主演の日本映画「佐賀怪猫伝(1937年)」「有馬猫(1937年)」「怪猫謎の三味線(1938年)」「怪猫赤壁大明神(1938年)」「山吹猫(1940年)」や米国における「キャット・ピープル(Cat People, 1942年)」「キャット・ピープルの呪い(The Curse of the Cat People,1944年)」といった化け猫映画を国際的に台頭させたが、そうした取り組みはむしろSF小説ブームも擁していた小説の方が先行した。観客を劇場に呼び込める様な有効な視覚化の手段がなかったからである。

角度面でいうと「丸い」という概念が平面上や立体上における幾何学的展開がある種の限界を迎える正六角形(内角120度)と結び付けられているのが興味深いのです。

ティンダロスの猟犬が「歪曲した空間」に現れる場合、120度以下の鋭角が必要となる。 部屋の角、割れた破片など、どれほど小さくとも条件に合致すれば、そこから青黒い煙が噴き出し、固まり、青い膿汁にまみれた原形質の実体が構成される。 逃れ得る方法は「鋭角をなくす事」。

一辺の長さが1の正六角形は単位円に内接する。このとき、正六角形の周長は6であり、これは単位円の円周長より短い。単位円の直径は2であるので円周率=円周長/直径)が \frac{6}{2}=3より大きいことの簡便な証明としてよく用いられる。古代より、この性質によって円周率が約3であることが知られていた。

そんな感じで以下続報…

【用語集】田辺聖子「ジョゼと虎と魚たち(1984年)」はどういう作品だったか?

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田辺聖子の短編恋愛小説、及び本作を表題作とする短編集。『月刊カドカワ1984年6月号に発表、角川書店より1985年3月27日刊行の同名短編集に収録された。足が悪いためにほとんど外出をしたことがないジョゼと、大学生・恒夫との純愛とエロティシズムを描くラブストーリー。

2003年に実写映画版が公開され、2020年には劇場アニメ版が公開された。

とりあえず、重要箇所を引用しておきます。 

サガンとの出会い方

ジョゼは小説好きで、市役所からやってくる巡回婦人文庫の小説本をよく借りるが、(障害者は会費無料で貸してもらえるフランソワーズ・サガンの本をそこで読んだ。それははじめ、推理小説かとまちがって借りたのだが、読んでるうちに面白くなり、何冊か借りた。するとそのフランスの女流作家は、自分の小説のヒロインによく、ジョゼという名をつけていることがわかった。ジョゼはたちまち心を奪われてしまった。山村クミ子という名よりは、山村ジョゼ、といったほうがずうっとすてきに思えた。何かいいことが起りそうに思われ、いや、いいことが起ったから、ジョゼという名が示唆されたのかと思ったりした。いいこと、というのは、彼女の前に恒夫が現われたことである。

当時の世相との乖離

ジョゼは家と施設しか往復していないので世間を知らない。障害者運動の団体やら集まりにも入らないので、人の輪も拡がらない。施設へくる介護ボランティアの青年や娘や中年婦人とも、ジョゼはうちとけずに人見知りするから、影が薄いと思われ、何でもあとまわしにされ、やがて忘れられてしまう。

恒夫は福祉関係に関係のない専攻だったので、障害者運動にはタッチしていなかったが、友人に介護ボランティアの男がおり、話を聞くことはある。障害者の中には差別闘争意識が強くて、日常でもおのずと人間性に圭角が多くなってゆく、そういう者もいるということだが、ジョゼは恒夫の見るところ、そういう風なのでもなかった。ジョゼは大勢で何かする、というのがきらいで、デモや集会をやって行政に押しかける、という場から遠い人生をひっそり、こっそり、生きている。

原作からして当時の「リベラル側の勝利 」とは距離を置く内容だったのである。

20世紀的権利拡大運動からの距離感

恒夫はジョゼの読書好きよりも、はじめ、彼女の態度がいつもどこか高飛車なのでとまどったようだ。

恒夫はジョゼの「いばり」はジョゼの甘えの裏返しなのじゃないかというカンが働いている。でも、もしそんなことを指摘したら、ジョゼがかんかんに怒ってヒキツケるか、呼吸困難をおこしそうだし、そういう心理の綾をこまかに分析して表現する習慣も能力も恒夫にないので、恒夫はだまっていた。

そんなに鋭い言葉を発するには似合わないジョゼの、市松サンのように美しい面輪も、恒夫には物珍しかった。大学のキャンパスで見る女の子たちはみな、すこやかな雌虎のようにたけだけしく、セクシュアルだったが、ジョゼには性の匂いはなく、旧家の蔵から盗み出してきた古い人形を運んでいるような気が、恒夫にはした。そんな彼女には、高圧的な物言いがぴったりだった。

原作版の結末

夜ふけ、ジョゼが目をさますと、カーテンを払った窓から月光が射しこんでいて、まるで部屋中が海底洞窟の水族館のようだった。

ジョゼも恒夫も、魚になっていた。

――死んだんやな、とジョゼは思った。

(アタイたちは死んだんや)

恒夫はあれからずうっと、ジョゼと共棲みしている。二人は結婚しているつもりでいるが、籍も入れていないし、式も披露もしていないし、恒夫の親許へも知らせていない。そして段ボールの箱にはいった祖母のお骨も、そのままになっている。

ジョゼはそのままでいいと思っている。長いことかかって料理をつくり、上手に味付けをして恒夫に食べさせ、ゆっくりと洗濯をして恒夫を身ぎれいに世話したりする。お金を大事に貯め、一年に一ぺんこんな旅に出る。

(アタイたちは死んでる。「死んだモン」になってる)

死んだモン、というのは屍体のことである。

魚のような恒夫とジョゼの姿に、ジョゼは深い満足のためいきを洩らす。恒夫はいつジョゼから去るか分らないが、傍にいる限りは幸福で、それでいいとジョゼは思う。そしてジョゼは幸福を考えるとき、それは死と同義語に思える。完全無欠な幸福は、死そのものだった。

(アタイたちはお魚や。「死んだモン」になった――)

と思うとき、ジョゼは(我々は幸福だ)といってるつもりだった。ジョゼは恒夫に指をからませ、体をゆだね、人形のように繊い、美しいが力のない脚を二本ならべて安らかにもういちど眠る。

とりあえず以下続報…

 

【用語集】「尻検知Callbackルーチン」その先天性と後天性。

太陽と月に背いてTotal Eclipse、1996年、映画化1995年)」で天才詩人アルチュール・ランボーショタ攻め)を演じたレオナルド・ディカプリオせっかくだから伝説を残そう」。

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女性に「尻フェチ」の傾向がある事は公認の事実。

筋肉質な体のほうが女子にモテる―。そう思っている男子もいるのでは? 1976年に学者のG・ウィルソンとD・ナイアスが発表した論文によると、「男子が女子に好まれると思う体のパーツ」と「実際に女子が好む男の体のパーツ」にはかなりの違いがあるそう。

たとえば、約21%の男子が「男のたくましい胸と肩」が人気だと考えているのに対し、実際の女子人気はたったの1%。逆に、男子の中で4%程度の人気だと思われている「」は、なんと39%もの支持を得て、女子の中ではダントツ1位の人気! しかも、キュッと締まった「小尻」に性的魅力を感じる女子が多いよう。

異性に対して肉体的な魅力を感じるのは、自分にはない部分。つまり、性差が強調されるパーツです。女性はお尻が丸くて大きい人が多いので、引き締まった小さいお尻は『男性特有の特徴』として、魅力的に見えるのです

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【用語集】「夢女子」と「腐女子/貴腐人」の狭間。

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一般に女性夢想者は「(男性キャラと女性キャラの関係性を追求する)夢女子」と「(男性キャラ同士の関係性を追求する)腐女子/貴腐人」の二つの側面を備えます(とりあえず排他的に存在するとは限らないとする)。

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【用語集】性癖に関する性差に生物学的裏付けはない?

女性が基本的に「手フェチ」「指フェチ」とされる現象、調べ込めば調べ込むほど「どうして主体を女性に限定する必要があるのか。男性も素直にそうしたいと道めるのがジェンダーバイアスの超克なのではないか?」という話になってきたりするのです。

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  • 女性には「指先の動きが何かを生み出す景色」を集めたがる傾向が観測されるが、その収集対象は異性のそれに限らないし、男性にも案外同じ性癖の持ち主が多かったりする。もちろん具体的性癖の抽出過程において女性特有の傾向を見てとる事は容易だが、ここで(観測結果集合/演算結果集合全体の元)そのものは男女共通であるという認識が重要となってくるのである。
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    男性の尻へのフェチ」についても女性のそれを(別に同性愛者でもない)男性が後天的に獲得するケースがある(エビデンス:私)。ただし当然、それが性癖に組み込まれるかどうかはまた別問題となる(構造的にプログラマブルとは言えるが、自分の意思で選べるとも限らない)。

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  • かかる「性癖」は「20世紀フェミニズム童話のマスターピース」とされるダイアナ・コールス「アリーテ姫の冒険(The Clever Princess, 1983年)」を原作とする片渕須直脚本・監督アニメ長編「アリーテ姫(Princess Arete,2001年)」で強調された「(ある種「呪術師の末裔」孔子が始めたとされる儒教)日常的反復の呪術性」と結び付けて語られる事がある。片渕須直は原作を大幅に改変したが、かかる改変結果こそが、彼の手掛けた「ちょびっツ(2002年,絵コンテ)」「BLACK LAGOON(2006年, 監督・シリーズ構成・脚本)」「この世界の片隅に(2016年)」とまとめて「第三世代フェミニズム童話のマスターピース」と目され、フェミニズム専門家を監修に迎えた「マッドマックス・怒りのデス・ロード(Mad Max: Fury Road,2015年)」と対比されていく流れがあったりする。「カードキャプターさくら(CARDCAPTOR SAKURA,1996年~2000年)」にも参画しており「プリンセスチュチュ(Princess Tutu, 2002年~2003年)」と結び付けて考えられ事もある。
    *これに関連して国際SNS関心空間に集った匿名女性アカウントの間で、自らの尻フェチについてこんな説明が生まれた。「私達が捕食動物だった頃、追い掛ける獲物の尻の形や動きから様々な情報を得ていた名残りである」。どうやら女性の遺伝子には人界に紛れ込んだCat People辺りのそれが普遍的に伝わっているものらしい。

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    そう、まずは「魔法少女ラインアップ(Magical Girl Liineup)」のコンセンサスが日本と海外では随分と異なっており、海外のそれを日本人が完全に理解するには補助線として自国作品に東映魔女っ子アニメ第6弾「ラクル少女リミットちゃん(1973年~1974年)」、柴田昌弘フェザータッチオペレーション(1982年〜1987年) 」、桂正和電影少女(ビデオガール1989年〜1992年)」、新谷かおるぶっとびCPU1993年〜1997年)」、赤松健A・Iが止まらない!(1994年〜1997年)」といった「コンピューター少女」系列のコンテンツが存在し、その蓄積が海外にはCLAMPちょびっツ講談社,2000年〜2002年)」で初めて知られ国際的にある種のバックドラック的カルチャー・ショックを与えた歴史をちゃんと踏まえねばならないのである。

    新世紀エヴァンゲリオンTV版1995年、旧劇場版1996年〜1997年)」の綾波レイも複雑な設定を背負っていたが、実は「フェザータッチオペレーション(1982年〜1987年) 」の場合も「ぶっとびCPU(1993年〜1997年)」の場合も「Serial experiments lain1998年)」の場合も「ちょびっツ2000年〜2002年)」の場合も岡本倫エルフェンリート(Elfen Lied,2002年~2005年,「大量殺人ミュータント」ルーシーの無害な第二人格が「みゅう」)」の場合も人口ヒロインの正体は概ね世界の破滅に関わる「セカイ系ヒロイン」だったのである。さらには彼女達こそ真の創造者で、人類こそそれに生かされている仮の存在に過ぎないと考える鬼頭莫宏なるたる(1998年~2003年)」や谷川流涼宮ハルヒシリーズ(2003年~)」まで現れた時代だった。

    流石に(原子力駆動少女リミットちゃん同様)純粋機械生命体たる「ちぃ」ちゃん自身が魔法少女ラインアップに加えられる事はないが、海外の魔法少女ファンの多くはCLAMPファンと重なっており、基礎教養としてこうした知識が必要となる。

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    (日本だけでなく海外でも)男性SFファンの多くが(心のない)女性型純粋機械生命体というと映画「ブレードランナー(Blade Runner, 1982年)」のプリスを挙げるだろう(ちなみに私自身は主人公デッカードの飼う黒山羊を生きたまま屋上から投げ落とすP.K.ディックの原作版「アンドロイドは電気羊の夢を見るか?(Do Androids Dream of Electric Sheep?, 1968年)」のレイチェルをその上に置く。ちなみに原作には人間とレプリカントを峻別するフォークト=カンプフ(Voight-Kampff)検査が、重度の統合失調症患者などをレプリカントと認識してしまう問題が指摘されている)。逆を言えばその話はこの層には通用しないと考えなければならない。そう、まさしく「系譜が違う」のである。

    関連Fun Artを収集するうち、それを手掛けた絵師達が西尾 維新「物語シリーズ(2006年~)」のFun Art絵師と重なる事に気付く。2010年代前半、国際SNS上の関心空間においてNymphet層(身体成長速度が少年のそれを追い抜く小学校高学年時代から再び抜き返される中学生時代にかけての少女)が実在する集団として可視化されるのと同時に「昔は男性も16才で元服していたが今はそうじゃない。女性のNymphet期も延長されてしかるべき」なるモラトリアム延長論が登場したが、この時そのシンボルとして推戴された表層の一つが「表人格=優等生/裏人格=淫乱(さらには「裏の裏」の人格として登場する火虎)」の「裏人格」ブラック羽川だったのである。

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    この辺りのNymphet期少女達が親から「人形の様な良い娘」を求められる事への反発は、既にこの層のニューヨーク出身のミュージシャンLana Del ReyQueen of the Gas Station」「lolita」のカルト人気に現れていたといえる(そのMVでナボコフ「ロリータ(Lolita,1955年)」のエイドリアン・ライン監督の手になる映画版 (1997年)に加えディズニー映画「ファンタジア(1940年)」の田園交響曲や「実写版セーラームーン(詳細不明)」からの引用があるのが興味深い)。

    知的ではあるが、屈折・鬱屈した自意識に満ちたハンバートに、ヨーロッパ旧世界の象徴を、成熟しつつも素朴な性質のロリータに、アメリカの象徴を読み取ることもできる。

    ここでアメリカ青春文化のさらなる根底に見てとるべきはJ.D.サリンジャーライ麦畑でつかまえて(The Catcher in the Rye, 1951年)」でなく(ナボコフ「ロリータ」の影響を指摘されている)ジョン・アップダイクA&P(1962年)」だったりするが、まぁどちらも舞台は(アメリカ経済の中心が西海岸に移る以前の)東海岸なのである。

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     当時の国際SNS上の関心空間では(親世代の要望を受けて監視機能強化に勤しんでいたFacebookから逃げてきた)匿名のNymphet期少女達が数十万人単位で群れており、狂犬の様に何にでも噛み付いて多種多様なムーブメントを連続して引き起こした。

  • すると一般に女性の特徴とされる「モフモフしているものを撫でたい=(意中の相手に)モフモフして撫でられたい」なる衝動も、本当は女性特有のものとは限らないのでは? そう認める事こそが「ジェンダーバイアスの超克」なのでは? 
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    実際、ホメロス(紀元前8世紀)「イーリアス」「オデュッセイア」を中核として紀元前7世紀にまとめて執筆されたトロイア戦争でアマゾンの女王ペンテシレイアを討ち取ったアキレウスが死に際のペンテシレイアの美しさを見て恋に落ち、彼女を殺したことを嘆いた構図は性別逆転しても通用する。

    https://66.media.tumblr.com/7eb6601b8a1699e855fc94c07e5039e8/tumblr_ob3duf9Dxg1v1u6k0o1_540.gif

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とりええず、以下続報…

【用語集】「当事者としての女性の自由と主体性の在り方」について。

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2010年代国際SNS上の関心空間に匿名で集った女性アカウントは「ホットパンツの上からばさぁっとBig T-shutsを羽織って男の人をはいてない?」とかドギマギさせるのが好き」とか「体を実際に売るのは嫌だけど、場末のバーでやさぐれて半裸状態でポールダンスを踊るのとかは一度くらい試みてみたい」とか断言する一方で(誰かが未想定のタイミングで女性の下着を盗み見る)パンチラを絶対に許しませんでした。

ちなみに男性はどんなタイミングで下着を見られても、いやそれどころか何もはいてない場合すら動じないものと規定されているっぽい。それはそれで「多様性の否定」なのでは?

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