田辺聖子の短編恋愛小説、及び本作を表題作とする短編集。『月刊カドカワ』1984年6月号に発表、角川書店より1985年3月27日刊行の同名短編集に収録された。足が悪いためにほとんど外出をしたことがないジョゼと、大学生・恒夫との純愛とエロティシズムを描くラブストーリー。
2003年に実写映画版が公開され、2020年には劇場アニメ版が公開された。
とりあえず、重要箇所を引用しておきます。
サガンとの出会い方
ジョゼは小説好きで、市役所からやってくる巡回婦人文庫の小説本をよく借りるが、(障害者は会費無料で貸してもらえる)フランソワーズ・サガンの本をそこで読んだ。それははじめ、推理小説かとまちがって借りたのだが、読んでるうちに面白くなり、何冊か借りた。するとそのフランスの女流作家は、自分の小説のヒロインによく、ジョゼという名をつけていることがわかった。ジョゼはたちまち心を奪われてしまった。山村クミ子という名よりは、山村ジョゼ、といったほうがずうっとすてきに思えた。何かいいことが起りそうに思われ、いや、いいことが起ったから、ジョゼという名が示唆されたのかと思ったりした。いいこと、というのは、彼女の前に恒夫が現われたことである。
当時の世相との乖離
ジョゼは家と施設しか往復していないので世間を知らない。障害者運動の団体やら集まりにも入らないので、人の輪も拡がらない。施設へくる介護ボランティアの青年や娘や中年婦人とも、ジョゼはうちとけずに人見知りするから、影が薄いと思われ、何でもあとまわしにされ、やがて忘れられてしまう。
恒夫は福祉関係に関係のない専攻だったので、障害者運動にはタッチしていなかったが、友人に介護ボランティアの男がおり、話を聞くことはある。障害者の中には差別闘争意識が強くて、日常でもおのずと人間性に圭角が多くなってゆく、そういう者もいるということだが、ジョゼは恒夫の見るところ、そういう風なのでもなかった。ジョゼは大勢で何かする、というのがきらいで、デモや集会をやって行政に押しかける、という場から遠い人生をひっそり、こっそり、生きている。
原作からして当時の「リベラル側の勝利 」とは距離を置く内容だったのである。
20世紀的権利拡大運動からの距離感
恒夫はジョゼの読書好きよりも、はじめ、彼女の態度がいつもどこか高飛車なのでとまどったようだ。
恒夫はジョゼの「いばり」はジョゼの甘えの裏返しなのじゃないかというカンが働いている。でも、もしそんなことを指摘したら、ジョゼがかんかんに怒ってヒキツケるか、呼吸困難をおこしそうだし、そういう心理の綾をこまかに分析して表現する習慣も能力も恒夫にないので、恒夫はだまっていた。
そんなに鋭い言葉を発するには似合わないジョゼの、市松サンのように美しい面輪も、恒夫には物珍しかった。大学のキャンパスで見る女の子たちはみな、すこやかな雌虎のようにたけだけしく、セクシュアルだったが、ジョゼには性の匂いはなく、旧家の蔵から盗み出してきた古い人形を運んでいるような気が、恒夫にはした。そんな彼女には、高圧的な物言いがぴったりだった。
原作版の結末
夜ふけ、ジョゼが目をさますと、カーテンを払った窓から月光が射しこんでいて、まるで部屋中が海底洞窟の水族館のようだった。
ジョゼも恒夫も、魚になっていた。
――死んだんやな、とジョゼは思った。
(アタイたちは死んだんや)
恒夫はあれからずうっと、ジョゼと共棲みしている。二人は結婚しているつもりでいるが、籍も入れていないし、式も披露もしていないし、恒夫の親許へも知らせていない。そして段ボールの箱にはいった祖母のお骨も、そのままになっている。
ジョゼはそのままでいいと思っている。長いことかかって料理をつくり、上手に味付けをして恒夫に食べさせ、ゆっくりと洗濯をして恒夫を身ぎれいに世話したりする。お金を大事に貯め、一年に一ぺんこんな旅に出る。
(アタイたちは死んでる。「死んだモン」になってる)
死んだモン、というのは屍体のことである。
魚のような恒夫とジョゼの姿に、ジョゼは深い満足のためいきを洩らす。恒夫はいつジョゼから去るか分らないが、傍にいる限りは幸福で、それでいいとジョゼは思う。そしてジョゼは幸福を考えるとき、それは死と同義語に思える。完全無欠な幸福は、死そのものだった。
(アタイたちはお魚や。「死んだモン」になった――)
と思うとき、ジョゼは(我々は幸福だ)といってるつもりだった。ジョゼは恒夫に指をからませ、体をゆだね、人形のように繊い、美しいが力のない脚を二本ならべて安らかにもういちど眠る。
とりあえず以下続報…