女性が基本的に「手フェチ」「指フェチ」とされる現象、調べ込めば調べ込むほど「どうして主体を女性に限定する必要があるのか。男性も素直にそうしたいと道めるのがジェンダーバイアスの超克なのではないか?」という話になってきたりするのです。
手フェチなりに手を描く時に意識してるポイントまとめてみました pic.twitter.com/nUufWWzLoh
— 志島とひろ㊗️元号男子CD2巻発売決定 (@tohiro1) 2013年12月20日
- 女性には「指先の動きが何かを生み出す景色」を集めたがる傾向が観測されるが、その収集対象は異性のそれに限らないし、男性にも案外同じ性癖の持ち主が多かったりする。もちろん具体的性癖の抽出過程において女性特有の傾向を見てとる事は容易だが、ここで族(観測結果集合/演算結果集合全体の元)そのものは男女共通であるという認識が重要となってくるのである。
「男性の尻へのフェチ」についても女性のそれを(別に同性愛者でもない)男性が後天的に獲得するケースがある(エビデンス:私)。ただし当然、それが性癖に組み込まれるかどうかはまた別問題となる(構造的にプログラマブルとは言えるが、自分の意思で選べるとも限らない)。 - かかる「性癖」は「20世紀フェミニズム童話のマスターピース」とされるダイアナ・コールス「アリーテ姫の冒険(The Clever Princess, 1983年)」を原作とする片渕須直脚本・監督アニメ長編「アリーテ姫(Princess Arete,2001年)」で強調された「(ある種「呪術師の末裔」孔子が始めたとされる儒教的)日常的反復の呪術性」と結び付けて語られる事がある。片渕須直は原作を大幅に改変したが、かかる改変結果こそが、彼の手掛けた「ちょびっツ(2002年,絵コンテ)」「BLACK LAGOON(2006年, 監督・シリーズ構成・脚本)」「この世界の片隅に(2016年)」とまとめて「第三世代フェミニズム童話のマスターピース」と目され、フェミニズム専門家を監修に迎えた「マッドマックス・怒りのデス・ロード(Mad Max: Fury Road,2015年)」と対比されていく流れがあったりする。「カードキャプターさくら(CARDCAPTOR SAKURA,1996年~2000年)」にも参画しており「プリンセスチュチュ(Princess Tutu, 2002年~2003年)」と結び付けて考えられ事もある。
*これに関連して国際SNSの関心空間に集った匿名女性アカウントの間で、自らの尻フェチについてこんな説明が生まれた。「私達が捕食動物だった頃、追い掛ける獲物の尻の形や動きから様々な情報を得ていた名残りである」。どうやら女性の遺伝子には人界に紛れ込んだCat People辺りのそれが普遍的に伝わっているものらしい。
そう、まずは「魔法少女ラインアップ(Magical Girl Liineup)」のコンセンサスが日本と海外では随分と異なっており、海外のそれを日本人が完全に理解するには補助線として自国作品に東映魔女っ子アニメ第6弾「ミラクル少女リミットちゃん(1973年~1974年)」、柴田昌弘「フェザータッチオペレーション(1982年〜1987年) 」、桂正和「電影少女(ビデオガール1989年〜1992年)」、新谷かおる「ぶっとびCPU(1993年〜1997年)」、赤松健「A・Iが止まらない!(1994年〜1997年)」といった「コンピューター少女」系列のコンテンツが存在し、その蓄積が海外にはCLAMP「ちょびっツ(講談社,2000年〜2002年)」で初めて知られ国際的にある種のバックドラック的カルチャー・ショックを与えた歴史をちゃんと踏まえねばならないのである。
「新世紀エヴァンゲリオン(TV版1995年、旧劇場版1996年〜1997年)」の綾波レイも複雑な設定を背負っていたが、実は「フェザータッチオペレーション(1982年〜1987年) 」の場合も「ぶっとびCPU(1993年〜1997年)」の場合も「Serial experiments lain(1998年)」の場合も「ちょびっツ(2000年〜2002年)」の場合も岡本倫「エルフェンリート(Elfen Lied,2002年~2005年,「大量殺人ミュータント」ルーシーの無害な第二人格が「みゅう」)」の場合も人口ヒロインの正体は概ね世界の破滅に関わる「セカイ系ヒロイン」だったのである。さらには彼女達こそ真の創造者で、人類こそそれに生かされている仮の存在に過ぎないと考える鬼頭莫宏「なるたる(1998年~2003年)」や谷川流「涼宮ハルヒシリーズ(2003年~)」まで現れた時代だった。
流石に(原子力駆動少女リミットちゃん同様)純粋機械生命体たる「ちぃ」ちゃん自身が魔法少女ラインアップに加えられる事はないが、海外の魔法少女ファンの多くはCLAMPファンと重なっており、基礎教養としてこうした知識が必要となる。
(日本だけでなく海外でも)男性SFファンの多くが(心のない)女性型純粋機械生命体というと映画「ブレードランナー(Blade Runner, 1982年)」のプリスを挙げるだろう(ちなみに私自身は主人公デッカードの飼う黒山羊を生きたまま屋上から投げ落とすP.K.ディックの原作版「アンドロイドは電気羊の夢を見るか?(Do Androids Dream of Electric Sheep?, 1968年)」のレイチェルをその上に置く。ちなみに原作には人間とレプリカントを峻別するフォークト=カンプフ(Voight-Kampff)検査が、重度の統合失調症患者などをレプリカントと認識してしまう問題が指摘されている)。逆を言えばその話はこの層には通用しないと考えなければならない。そう、まさしく「系譜が違う」のである。
関連Fun Artを収集するうち、それを手掛けた絵師達が西尾 維新「物語シリーズ(2006年~)」のFun Art絵師と重なる事に気付く。2010年代前半、国際SNS上の関心空間においてNymphet層(身体成長速度が少年のそれを追い抜く小学校高学年時代から再び抜き返される中学生時代にかけての少女)が実在する集団として可視化されるのと同時に「昔は男性も16才で元服していたが今はそうじゃない。女性のNymphet期も延長されてしかるべき」なるモラトリアム延長論が登場したが、この時そのシンボルとして推戴された表層の一つが「表人格=優等生/裏人格=淫乱(さらには「裏の裏」の人格として登場する火虎)」の「裏人格」ブラック羽川だったのである。
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この辺りのNymphet期少女達が親から「人形の様な良い娘」を求められる事への反発は、既にこの層のニューヨーク出身のミュージシャンLana Del Rey「Queen of the Gas Station」「lolita」のカルト人気に現れていたといえる(そのMVでナボコフ「ロリータ(Lolita,1955年)」のエイドリアン・ライン監督の手になる映画版 (1997年)に加えディズニー映画「ファンタジア(1940年)」の田園交響曲や「実写版セーラームーン(詳細不明)」からの引用があるのが興味深い)。
知的ではあるが、屈折・鬱屈した自意識に満ちたハンバートに、ヨーロッパ旧世界の象徴を、成熟しつつも素朴な性質のロリータに、アメリカの象徴を読み取ることもできる。
ここでアメリカ青春文化のさらなる根底に見てとるべきはJ.D.サリンジャー「ライ麦畑でつかまえて(The Catcher in the Rye, 1951年)」でなく(ナボコフ「ロリータ」の影響を指摘されている)ジョン・アップダイク「A&P(1962年)」だったりするが、まぁどちらも舞台は(アメリカ経済の中心が西海岸に移る以前の)東海岸なのである。
当時の国際SNS上の関心空間では(親世代の要望を受けて監視機能強化に勤しんでいたFacebookから逃げてきた)匿名のNymphet期少女達が数十万人単位で群れており、狂犬の様に何にでも噛み付いて多種多様なムーブメントを連続して引き起こした。
- すると一般に女性の特徴とされる「モフモフしているものを撫でたい=(意中の相手に)モフモフして撫でられたい」なる衝動も、本当は女性特有のものとは限らないのでは? そう認める事こそが「ジェンダーバイアスの超克」なのでは?
実際、ホメロス(紀元前8世紀)「イーリアス」「オデュッセイア」を中核として紀元前7世紀にまとめて執筆されたトロイア戦争環でアマゾンの女王ペンテシレイアを討ち取ったアキレウスが死に際のペンテシレイアの美しさを見て恋に落ち、彼女を殺したことを嘆いた構図は性別逆転しても通用する。
とりええず、以下続報…