「諸概念の迷宮(Things got frantic)」用語集

本編で頻繁に使うロジックと関連用語のまとめ。

【用語集】「自殺を煽る」近世コンテンツの病理

絶対王政全盛期の18世紀フランスではアベ・プレヴォマノン・レスコー(Manon Lescaut ,1731年)」に代表される「王侯貴族の次男坊以下が軍隊の将校や教会の聖職者に押し込められた境遇を不服に思い、政略結婚に使えなくて修道院に押し込められた王侯貴族の娘と駆け落ちしたり、高級遊女に誘惑されて破滅的結末を迎えるラブロマンスが流行し、マルキ・ド・サド文学ゴーティエ死霊の恋La Morte amoureuse、1836年)」、アンデルセン即興詩人Improvisatoren,1835年)、小デュマ椿姫La Dame aux camelias,1848年)」などに影響を与えました。

この種の物語がすべからく悲劇的結末を迎えるのは当時の体制に対する配慮という側面もあったといいます。むしろ今日の関心を引くのは、かかる強烈な「ここではない何処か」に向かいたい感情がどの土地に結び付けられてきたかだったりします。

特に重要だったのがその最初期の段階。ルソーがフランスで「ジュリまたは新エロイーズ(Julie ou la Nouvelle Héloïse、1761年)」を発表すると、ドイツでゲーテがこれを換骨奪胎する形で「若きウェルテルの悩みDie Leiden des jungen Werthers、1774年)」を発表して大成功を収めた瞬間。

若きウェルテルの悩み」は単なる模倣ではなかった。英国やスイスやベルギーやチェコカタルーニャアメリカでは自然発生的に広がった産業革命。その導入方法がフランスやドイツに波及する過程で他地域へも伝播可能な内容に編纂されたのと良く似ている。ここで重要な鍵を握ったのは「地上のあらゆる知識を網羅し尽くそうとするフランス啓蒙学的妄執」の「知り得た事の限りを尽くして自らの世界観を構築しようとする一個人の苦悩」への置換。それで全体の分量が大幅に削減され、内容も現代人の再読に耐えるものになった。実際現代日本でも「若きウェルテルの悩み」は相応に読み返されているが「新エロイーズ」の場合は、それを読破する事そのものが宗教的苦行と認識され、敬遠されていたりする。

ただしこの作品の流行は「若者の自殺を急増させる」という副作用を伴ったのです。

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 近世日本でもこれに相似する景色なら見受けられました。

人形浄瑠璃史から見た『曽根崎心中

人形浄瑠璃の演目はそれまでヤマトタケル伝説や義経物語など人々によく知られた伝説や伝承を描くものであったが、門左衛門はここに同時代の心中事件という俗世の物語を持ち込みこれまでの歴史物(時代物)にたいして世話物といわれる新しいジャンルを創り上げたといわれている。俗世の事件を脚色するというやり方は当時既に先例があったが、この作品を「最初の世話物」と位置づける本が「今昔操年代記(1727年)」「外題年鑑(1757年)」などいくつかあり、この作品が広く浄瑠璃界に広まっていたことが分かる。なお初演年(1703年の竹本座)では、時代浄瑠璃日本王代記」上演後、当日2部目の演目とされている。

短い物語ではあるが、俗世間の事件を浄瑠璃で描くという試みや作品としての面白さが受け「曽根崎心中」は当時の人々に絶賛された。「今昔操年代記」にはその結果、竹本座が抱えた借金を返済してしまったとのエピソードが伝えられている。

  • 元禄16年(1703年)の「曽根崎心中」…大坂堂島新地の女郎・はつと、大坂内本町の醤油商平野屋の手代・徳兵衛が西成郡曽根崎村の露天神の森で心中した事件。約1カ月後には、これを題材とした近松門左衛門の脚本による人形浄瑠璃が上演されて一気に注目を集め「未来成仏疑ひなき恋の手本となりにけり」という最終段の文句のインパクトもあり、これ以降「心中物」ブームが到来することとなったが「曽根崎心中」自体は数回で上演禁止となり、復活したのは戦後になってからであった。

    ちなみにこれと「心中天網島」の間に発表された人形浄瑠璃鑓の権三重帷子(1717年)」もある種の心中物と読めなくはない。同年大阪高麗橋に起こった妻敵討の事件を脚色した際物。

  • 享保5年(1720年)の「心中天網島」…大坂天満の紙屋治兵衛と女郎の小春が心中した事件を近松門左衛門が取り上げ、人形浄瑠璃の演目として公演を行ったところまたもや大ヒット。この後リアルな心中事件が続発した事に幕府は辟易し、享保8年1723年)2月20日に心中物の上演と脚本の執筆・発行を禁じるお触れを出す。「一人だけ生き残ったら殺人罪、2人共生き残った場合は晒し者とした上に市民権を剥奪、心中遺体は親族に渡さずに葬儀さえも禁止する」なる厳しい処分の背景にはそれが幕府(ひいては当時の身分制)批判につながるという考えがあったという。
  • 天明5年(1785年)の「箕輪心中」…武士が、それも4000石取りの旗本が起こした心中事件で一大スキャンダルとなった。藤枝教行(ふじえだのりなり)は、吉原の遊女・綾絹と深い仲になったが、綾絹を商人が身請けするとも、彼自身が吉原に入り浸っていたことを幕府に知られ甲府へ飛ばされるともいう話になり、いずれにせよもう会えなくなると悲観し、藤枝は勝手に綾絹を吉原から連れ出してた上に追っ手に迫られ心中して果てたのである。藤枝家は死んだのが教行ではなく家人ということにして隠そうとしたがあっさり露見。教行の妻・みつとその母は謹慎処分となり、藤枝家は改易となってしまう。みつはまだ19歳。死んだ綾絹もまた19歳であった(ちなみに教行は27歳)。のちにこの事件を題材に小説家・岡本綺堂が「箕輪心中」を著している。
    岡本綺堂番長皿屋敷もある種の心中物として描いている。

    いつの間にか舞台が大阪から江戸に移ってる辺りが重要で、この間に「天下の台所大阪の豪商が主要パトロンとなった元禄文化(17世紀後半~18世紀初頭)から江戸遊郭を拠点とする文人達が主導した天明狂歌(1781年~1789年)を経て町人中心に全国規模で展開した化政文化(1804年~1830年)へと推移している。

江戸当局側は日本のシェークスピアと呼ばれる事もある近松門左衛門1653年〜1725年)の「道行物」の流行に頭を抱え規制を強化した。そこで称揚される身分違いの恋や不倫、最終的には心中に終わる悲劇性そのものが当時の身分制の矛盾に突きつけられた政体批判に他ならなかったし、実際若者の心中や、(樋口一葉が短編「にごりえ(1895年)」に活写した様な)手の届かぬ高級遊女を道連れに選んだ破れかぶれ男子の無理心中を急増させてしまったからである。

当時の統計にも残っている「若者の心中の急増」がどれほど酷いものだったかというと…(江戸時代における博物学、明治時代における民俗学の整備を背景にその「剰余」として独特の形で蓄積され体系化されてきた)日本の妖怪には「さがり」「鶴瓶落とし」といった「人気のない深夜に突如頭上から落ちてきて派手な落下音で驚かす怪異」なる現象学的系譜が存在するのですが、当時の記録に関連事象を求めると(月に何度も深夜鳴り響いた)若い男女の首吊り心中音(手法に思わぬ発展があり、派手な音を鳴らすタイプが好まれた)が「都心部の風物詩」と目され「夜鳴き蕎麦を啜っていて、これに驚くのは野暮な田舎者と蔑まれた」なる記述に行き着くのです。

こうした状況は以下も含め「(この何時流行病や天災や飢饉や事故で死ぬか分からない情勢下で)少年少女に大人になるまで色事を我慢せよと説くのは難しい」なる諦観を下敷きにしないとその全体像が俯瞰出来ません。

儒学者貝原益軒和俗童子1710年)」は「五倫君臣の義、父子の親、夫婦の別、長幼の序、朋友の信)」を人間の理想に掲げつつ、それが当時の日本では(特に庶民の間では一切)実践されていない事実を認める。特に女子が伊勢物語源氏物語の様な恋愛絵巻に耽溺するのを防ぐ方法などあるはずもなく、ならばせめて幼少時より読み書き算盤を叩き込み、日記や帳簿をつける習慣をつけさせて「(身の破滅を防ぐ為に計算と自己管理がちゃんと出来る人間」に育てよと説く。

実際に当時の庶民の間に自省を強いたのは、より弊害が大きかった「手の届かぬ高級遊女を道連れに選んだ破れかぶれ男子の無理心中」の方とも。

丸山福山町の銘酒屋街に住むお力。お力は上客の結城朝之助に気に入られるが、それ以前に馴染みになった客源七がいた。源七は蒲団屋を営んでいたが、お力に入れ込んだことで没落し、今は妻子ともども長屋での苦しい生活をおくっている。しかし、それでもお力への未練を断ち切れずにいた。

ある日朝之助が店にやって来た。お力は酒に酔って身の上話を始めるが、朝之助はお力に出世を望むなと言う。

一方源七は仕事もままならなくなり、家計は妻の内職に頼るばかりになっていた。そんななか、子どもがお力から高価な菓子を貰ったことをきっかけに、それを嘆く妻と諍いになり、ついに源七は妻子とも別れてしまう。お力は源七の刃によって、無理とも合意とも知らない心中の片割れとなって死ぬ。

 魂祭(たままつり)過ぎて幾日、まだ盆提燈のかげ薄淋しき頃、新開の町を出し棺二つあり、一つは駕(かご)にて一つはさし擔ぎにて、駕は菊の井の隱居處よりしのびやかに出ぬ、大路に見る人のひそめくを聞けば、彼の子もとんだ運のわるい詰らぬ奴に見込れて可愛さうな事をしたといへば、イヤあれは得心づくだと言ひまする、あの日の夕暮、お寺の山で二人立ばなしをして居たといふ確かな證人もござります、女も逆上(のぼせ)て居た男の事なれば義理にせまつて遣つたので御坐ろといふもあり、何のあの阿魔が義理はりを知らうぞ湯屋の歸りに男に逢ふたれば、流石に振はなして逃る事もならず、一處に歩いて話しはしても居たらうなれど、切られたは後袈裟(うしろげさ)、頬先(ほゝさき)のかすり疵、頸筋の突疵など色々あれども、たしかに逃げる處を遣られたに相違ない、引かへて男は美事な切腹、蒲團やの時代から左のみの男と思はなんだがあれこそは死花(しにばな)、ゑらさうに見えたといふ、何にしろ菊の井は大損であらう、彼の子には結構な旦那がついた筈、取にがしては殘念であらうと人の愁ひを串談に思ふものもあり、諸説みだれて取止めたる事なけれど、恨は長し人魂(ひとだま)か何かしらず筋を引く光り物のお寺の山といふ小高き處より、折ふし飛べるを見し者ありと傳へぬ。

そういえば有名な「吉原百人斬り」事件が起こった背景にもこうした世俗感情が実存したのでした。

 そんな感じで以下続報…