「諸概念の迷宮(Things got frantic)」用語集

本編で頻繁に使うロジックと関連用語のまとめ。

【用語集】「馬鹿」と「阿呆」 の起源?

馬鹿」とは…「阿呆」とは…

f:id:ochimusha01:20171016201701g:plain

趙高(拼音: Zhào Gāo、?〜紀元前207年)-Wikipedia

秦の宦官、政治家。弟に趙成。

  • 一般には趙の公族として生まれるも、幼少時に母親が罪を犯し、これに連座して宮刑に処せられたという。ただしこれに疑問を持つ史家も多く疑わしい点が多い。

  • 実際には閻楽という女婿がいることから、秦に官吏として仕える途中で罪を犯したかもしくは連座により宮刑に処せられたとする説もある。

  • また貧家に生まれ多くの兄を養うために自ら宦官を志願して秦に仕えたのだとする説もある。

始皇帝にいつから仕えたのか『史記』秦本紀に一切記されていない。いずれにせよ勤勉で法律に詳しいことから始皇帝の末子・胡亥のお守役を拝命されたの契機に晩年期の始皇帝にその才能を寵愛されることになり、始皇帝の身辺の雑務を全てこなす様になる。

 始皇帝死後の独裁と「阿呆の語源

始皇帝の五度目の行幸にも参加するが、始皇帝行幸中に病死すると、丞相の李斯を強引に抱き込み、その遺言を書き換えて、太子の扶蘇を自決に追い詰め、末子の胡亥を即位させる。

  • この時、遺言には扶蘇が葬儀を取り仕切るよう記されていた。すなわち実質上の後継指名であり、それもあって胡亥は即位を躊躇ったが、その説得の際に趙高が放った台詞が有名な「断じて行えば鬼神もこれを避く」だったのである。

  • 自ら郎中令(九卿の一。宮門をつかさどる)に就任して胡亥を丸め込み、宮中に籠らせて贅沢三昧の生活をさせ、自らは代わって政務を取り仕切って実権を掌握。胡亥の傀儡ぶりは著しく、丞相李斯ですら趙高の仲介なくしては胡亥に奏上も適わなかった程であった。

  • その政策は基本的には始皇帝の方針を引き継いだが、皇帝の権威、即ち自らの権威を高めることに腐心し、阿呆の語源とも言われる阿房宮の大規模な増築を進め、人民に過重な労役を課す。恐怖政治を敷いたことと合わせ、大いに人民から恨みを買うことになった。

また蒙恬、公子将閭や2人の弟たち、公子高など有力者や不平派を悉く冤罪で殺害。これにより悪臣などが増え、政治に対する不平不満は増大、始皇帝在位時は豊富であった人材も枯渇してしまう。

秦帝国の滅亡と「馬鹿の語源

天下に満ちた怨嗟は、陳勝呉広の乱の挙兵をきっかけに、枯野へ火を放ったように一気に全土での反乱として現れた。

  • 事態を憂慮し、対策と改革が必要と考えた李斯と、現状保持に拘る趙高は対立を深め、ついに趙高は胡亥に讒言して、李斯を胴斬りの刑で処刑させ、自分が後任の丞相となった。

  • その間にも反乱は広がり、主力軍でもある名将章邯が項羽に敗れた際も、趙高は増援を送るどころか敗戦の責任をなすりつけようとしたため、章邯は項羽率いる楚に20万の兵と共に降伏し、秦帝国の崩壊は決定的となった。

  • その間も胡亥は何も知らされていなかったが、都である咸陽のすぐ近くにまで劉邦の軍勢が迫ると趙高はさすがに隠し切れぬと思い、胡亥を弑する計画を練った。この際に群臣が自分のいうことを聞くかどうかで、ある事を試みた。趙高が宮中に「珍しい馬がおります」と鹿を連れてきた。 胡亥は「丞相はどうかしたのか、これは鹿ではないか」と言ったが、「これは馬です。君らはどう思うか?」と黙り込む群臣に聞いた。趙高の権勢を恐れる者は馬と言い、屈しない者は鹿と言った。趙高はその場はちょっとした余興ということで納めたが、後日、鹿だと答えた官吏を、軒並み捕らえて処刑した。このエピソードが馬鹿の語源としてよく知られている。

  • こうして反対者を粛清した趙高は謀反して胡亥を弑した(望夷宮の変)。この時、劉邦軍と密かに内通を画策したが、劉邦からは全く相手にされていなかった。胡亥の後継として、人望の厚い子嬰を擁立し、全てを胡亥のせいにすることで自身への非難をかわそうとするが、趙高を憎悪する子嬰と韓談らによって、屋敷に呼び出されて殺害され、一族も皆殺しにされた。

  • これにより秦国内は大いに士気が高まったが、時既に遅く、既に関中へ劉邦軍が入っており、咸陽の目前に迫っていた。子嬰は観念して降伏。秦は滅亡。

秦帝国を私物化し、保身のため忠臣賢臣を謀殺するに足らず皇帝をも殺し、天下万民からも恨みを買い帝国滅亡の原因となった趙高は、悪臣の象徴として後世でも引き合いに出されている。 なお、日本でも『平家物語』に漢の王莽、梁の朱异、唐の安禄山とともに趙高が引き合いに出され、天下を私した結果滅んだ例として紹介されている。

確かにその人の名前は「平家物語」冒頭にも登場します。

祇園精舎の鐘の声、諸行無常の響きあり。沙羅双樹の花の色、盛者必衰の理をあらはす。おごれる人も久しからず、ただ春の夜の夢のごとし。たけき者も遂にはほろびぬ、ひとへに風の前の塵に同じ。
*現代語訳「祇園精舎の鐘の音は、「諸行無常」の響きがある。沙羅双樹の花の色は、盛んな者も必ず衰えるという道理を示している。おごり高ぶっている人(の栄華)も長く続くものではなく、まるで(覚めやすいと言われている)春の夜の夢のようである。勢いが盛んな者も結局は滅亡してしまう、まったく風の前の塵と同じである。」

遠くの異朝をとぶらへば、秦の趙高、漢の王莽、梁の朱忌、唐の禄山、これらは皆、旧主先皇の政にも従はず、楽しみを極め、諫めをも思ひ入れず、天下の乱れんことを悟らずして、民間の愁ふるところを知らざつしかば、久しからずして、亡じにし者どもなり。
*現代語訳「遠く外国(の例)を探すと、秦の趙高、漢の王莽、梁の朱忌、唐の禄山、これらの者はみな、もとの主君や前の皇帝の政治にも従わず、享楽の限りを尽くし、(他人の)諌言も気にかけることなく、天下が乱れていることを理解せず、民衆が心を悩ましていることを認識しなかったので、(その栄華も)長く続くことはなく、滅んでいった者たちである。」

近く本朝をうかがふに、承平の将門、天慶の純友、康和の義親、平治の信頼、これらはおごれる心もたけきことも、皆とりどりにこそありしかども、間近くは六波羅の入道前太政大臣朝臣清盛公と申しし人のありさま、伝え承るこそ、心も詞も及ばれね。

*現代語訳「近ごろの我が国(の例を)調べてみると、承平の平将門、天慶の藤原純友、康和の源義親、平治の藤原信頼、これらの者はおごり高ぶる心も勢いが盛んなことも、みなそれぞれに甚だしいものであったが、ごく最近で言えば、六波羅の入道で前の太政大臣朝臣清盛公と申した人の有様は、伝え伺うにつけても、想像することも言い表すこともできないほどである。」

この俗説の最も興味深い点は、どうやら「馬鹿」や「阿呆」といった漢字用例の実際の起源がこうじゃない辺り。

馬鹿 - Wikipedia

その語源について決定的な説は存在しない。文献における初出は太平記にでの「馬鹿者」であり、「馬鹿」という用法はそれより後世である事から、当初は「馬鹿者」という熟語としてのみ使われたと思われ、それを前提とした説のほうが若干優勢であると言える。

  • サンスクリット梵語)説…サンスクリット語で「痴、愚か」を意味するmohaの音写である莫迦の読みからくるとする説。僧侶が使っていた隠語であって馬鹿という表記は後の当て字であるとする。江戸時代の国学者天野信景が提唱した説であり、広辞苑をはじめとした主要な国語辞典で採用されている(ただし馬鹿に当初は「愚か」という意味はなかったとする説と相性が悪い)。同じサンスクリット語のmahailaka(摩訶羅:無知)(新村出石黒修)、あるいはmaha(摩訶:おおきい、偉大な)を語源とする説もある。またバングラデシュ公用語であるベンガル語サンスクリットが祖語)も「バカ」という単語は日本語と同じく愚かな者を指す。

  • 史記の「指鹿為馬(しかをさしてうまとなす)」の故事を語源とする説…ただし「馬鹿」のうち鹿の「か」は訓読みであり、中国風の音読みで馬鹿を「ばか」と読むことはできないなどの問題がある。

  • 若者説…「若者(wakamono)」のw音がb音に転じて「馬鹿者」となったとする説。民俗学者柳田國男は、広辞苑の編者・新村出が提唱したと書いているが、新村が文章として残していないため不明。新村は広辞苑サンスクリット説を採用しているが、積極的な採用ではなかったようである。その他、楳垣実など。

  • 破家説…禅宗の仏典などに出てくる破産するという意味の「破家」と「者」をくっつけて、「破産するほど愚かな者」というところから「馬鹿者」という言葉が生まれたとする説。東北大学佐藤喜代治によって提唱され、日本国語大辞典で採用されている。

  • 馬家説…中国にいた馬という姓の富裕な一族が、くだらぬことにかまけて散財し、その家が荒れ放題となったという白居易の白氏文集にある詩の一節から生まれたとする説。「馬家の者」から「馬鹿者」となったとする。『全国アホ・バカ分布考』で松本修が提唱した。

  • はかなし説…雅語形容詞である「はかなし」の語幹が変化したという説。金田一春彦はこの説によっており、これをとる国語辞典もある。

  • をこ説…古語で愚かなことを「をこ」といい、これがなまったとする説(アホもこれに由来するのではないかともいうが、いずれも証拠はない)(柳田國男『笑の本願』)。

  • ぽけ説…「ぼけ(おそらく、「ほうけ(る)」「ふうけ(る)」の転訛)」がなまったとする説(小山田与清『松屋筆記』、永田直行『菊池俗言考』)。

いずれにせよ、文献における出典は次のとおり。

  • 「かかるところに、いかなる推参の馬鹿者にてありけん」(太平記 - 巻第十六)
  • 「馬鹿 或作母嫁馬嫁破家共狼藉之義也」(文明本節用集)
  • 「馬鹿 指鹿曰馬之意」(運歩色葉集)
  • 「此家中には、何たる馬嫁も、むさと知行を取ぞと心得て」(甲陽軍鑑 - 品十三)
  • 「女朗まじりの大桶、みるから此身は馬鹿となって」(浮世草子好色一代男 - 五・三)

南北朝時代太平記での「馬鹿者(バカノモノ)」の使用が初出である。 初期の頃での「馬鹿者」は文明本節用集にあるとおり「狼藉をはたらく者」で、現在の「愚か」の意味を含む言葉ではなかった。「愚か」を指す言葉には他に古代から使われていた「烏呼者(ヲコノモノ)」があり、そちらが使用されていた。馬鹿が「愚か」の意を含むようになるのは江戸時代の好色一代男あたりからである。

阿呆 - Wikipedia

語源の一説として「秦代の大宮殿阿房宮の不必要・無駄に大きすぎるとするイメージからとする説」「劉備の子で蜀の2代皇帝劉禅の、『三国志』や『三国志演義』における暗君のイメージから、その幼名「阿斗」に由来するとする説」などもあるが、ともに信憑性は乏しい。

  • 文献における初出は13世紀に書かれた鴨長明の『発心集』の第8巻にある「臨終にさまざま罪ふかき相どもあらはれて彼のあはうのと云ひてぞ終わりける」とされる。しかし『全国アホ・バカ分布考』で著者の松本修は、方言の分布状況から阿呆がもっと新しい言葉だとみており『発心集』の記述を疑問視。これ以外の点からも『発心集』の第7巻、第8巻を後世の増補版と指摘する研究がある。

  • 『発心集』の次に文献に現れるのは3世紀後の戦国時代に書かれた『詩学大成抄』になる。現存する写本では「アハウ」という言葉の左側に傍線が引かれているが、これは元々この言葉が漢語だったことを意味するものだとされており中国語語源説を補強するものとなっている。

  • 江戸時代初期に書かれた大久保忠教の『三河物語』でも「阿呆」という言葉が以下のように使われている。「然ル処に、阿部之大蔵(定吉)、惣領之弥七郎ヲ喚て申ケルハ、(中略)、七逆五逆之咎ヲ請申事、「日本一の阿呆弥七郎メ」トハ此事なり。(中略)清康三拾之御年迄モ、御命ナガラヱサせ給ふナラバ、天下ハタヤスク納サせ給ンに、廿五ヲ越せラレ給ハで御遠行有社、無念ナレ、三河にて森山崩レト申ハ、此事なり。」
    *解説主君の松平清康を、家臣の阿部正豊(弥七郎)が斬り捨てた森山崩れのいきさつで、大久保は阿部を、日本一の阿呆と評している。松平清康は、30まで存命なら天下をたやすく取れたものをと嘆いている。

  • 中国の江南地方の方言「阿呆(アータイ)」が日明貿易で文字として直接京都に伝わった可能性が『全国アホ・バカ分布考』で指摘されている。上海や蘇州、杭州などで現在も使われている言葉で、「阿」は中国語の南方方言で親しみを示す接頭語であり、意味は「おバカさん」程度の軽い表現である。これは現在の日本語の(特に近畿地方における)「阿呆」にもあるニュアンスである。

なお、「呆」の漢字音は日本語の「ほう」に対し現代中国語では慣用により「dāi」とまったく異なる発音をする。

吃驚したのが「馬鹿や阿呆の語源」に最初から「断じて行えば鬼神もこれを避く」なる超越主義的/魔術的リアルズム的執着が絡んでくる辺り。

冒頓単于 - Wikipedia

匈奴単于在位紀元前209年〜紀元前174年)。「単于」とは匈奴の言葉で君主を指し、漢語で言うところの王・皇帝に相当する。また「冒頓」とはテュルク語やモンゴル語の「勇者」を意味する「バガトル」の漢字音写、との説がある。
遊牧民族系国家の名君は「秦の始皇帝」とか「匈奴の英王」みたいな一般名詞を固有名詞として残す事が多い。特定の呼称での称揚を必要としないほど、その治世下においては(太陽にのみ比せられる)圧倒的カリスマ性が所領全体を覆い尽くし、これに基づいた絶対的専制体制により厳粛な法治体制が運営されるのである。

f:id:ochimusha01:20181007065258j:plain

紀元前209年に反乱を起こして父、継母、異母弟及びその側近を抹殺した上で、単于に即位したが、クーデターに当たり、事前に冒頓は私兵を秘密裏に養成していた。私兵を率いて「自分が鏑矢を放ったらすぐさま同じ方向に矢を放て」と命令する。そして、まず野の獣を射た。矢を放たないものは斬り殺した。次いで自らの愛馬に向かって射た。同じく放たないものは斬り殺した。更に自分の愛妾を射ち、同じく放たないものは斬り殺した。そして父の愛馬を射るときには全ての部下が矢を放った。こうして忠実な部下を得たのである。そして父が通りかかった際にそこに向けて鏑矢を放ち、配下の私兵も大量の矢を浴びせ、これがクーデターの端緒となった。

即位直後、東胡から使者がやってきて「頭曼様がお持ちだった千里を駆ける馬を頂きたい」と言った。即位直後の若輩のため、甘く見てのことだった。冒頓単于は部下を集めて意見を聞いた。部下達は「駿馬は遊牧民の宝です。与えるべきではありません」と言ったが、冒頓単于は「馬は何頭もいる。隣り合う国なのに、一頭の馬を惜しむべきではない」といい、東胡へ贈った。

これに更に甘く見た東胡は、再度使者を送り「両国のため、冒頓様の后の中から一人を頂きたい」と言った。部下達は「東胡はふざけすぎています。攻め込みましょう」と言ったのだが、冒頓単于は「后は何人もいる。隣り合う国なのに、一人の后を惜しむべきではない」と言い、東胡へ贈った。

また東胡から使者がやってきて、「両国の間で国境としている千余里の荒野を、東胡が占有することにしたい」と言ってきた。先の件では一致して反対した部下達も、遊牧民故に土地への執着が薄いこともあり二分された。その一方が「荒地など何の価値も有りません。与えても良いでしょう」と言った途端、冒頓単于は怒り「土地は国の根幹である!今与えても良いと言った者は斬り捨てろ!」と言い、馬に跨り「全国民に告ぐ!遅れたものは斬る!」と東胡へ攻め入った。一方の東胡は先の件もあって完全に油断しており、その侵攻を全く防げなかった。物は奪い、人は奴隷とし、東胡王を殺し、東胡を滅亡させた。続けて他の部族に対しても積極的な攻勢を行い、月氏を西方に逃亡させるなど勢力範囲を大きく広げ、広大な匈奴国家を打ち立てた。
*中華王朝は伝統的に私欲に駆られた閥族の暗闘で朝廷が機能麻痺し内紛によって国土分裂危機を迎える都度、隣接する遊牧民国家に圧倒、というより秦漢代以降はそれに征服され続ける。この記述にはそういう状況に対する、ある種の反面教師性が盛り込まれているといえよう。匈奴に屈服した将軍を庇って宮刑に処された司馬遷が「史記」にこっそり盛った毒とも。
紀元前200年、40万の軍勢を率いて代を攻め、その首都・馬邑で代王・韓王信を寝返らせた。前漢皇帝・劉邦高祖)が歩兵32万を含む親征軍を率いて討伐に赴いたが、冒頓単于は弱兵を前方に置いて、負けたふりをして後退を繰り返したので、追撃を急いだ劉邦軍の戦線が伸び、劉邦は少数の兵とともに白登山で冒頓単于に包囲された。この時、劉邦は7日間食べ物が無く窮地に陥ったが、陳平の策略により冒頓単于の夫人に賄賂を贈り、脱出に成功した(白登山の戦い)。
*ネットで拾ったこの事件の総括。

f:id:ochimusha01:20181007072500p:plain

その後、冒頓単于は自らに有利な条件で前漢と講和した。これにより、匈奴前漢から毎年贈られる財物により、経済上の安定を得、さらに韓王信や盧綰等の漢からの亡命者をその配下に加えることで勢力を拡大させ、北方の草原地帯に一大遊牧国家を築き上げることとなった。これには、成立したての漢王朝は対抗する力を持たず、劉邦が亡くなった後に「劉邦が死んだそうだが、私でよければ慰めてやろう」と冒頓単于から侮辱的な親書を送られ、一時は開戦も辞さぬ勢いであった呂雉も、中郎将の季布の諌めにより、婉曲にそれを断る内容の手紙と財物を贈らざるを得なかった。
*ここで我々は思い出さねばならない。こうした異民族との関係が宋代(960年 〜1279年)や明代(1368年〜1644年)にも繰り返されてきた事を。そして間に挟まる唐朝(618年〜907年)も元朝(1271年〜1368年)も清(1636年~1912年)も全て元来は異国人征服王朝であった事を。
その後、前漢王朝が安定し国が富むに至り、武帝はこの屈辱的な状況を打破するため大規模な対匈奴戦争を開始する。しばらく一進一退が続いたものの、前漢の衛青と霍去病が匈奴に大勝し、結局、匈奴はより奥地へと追い払われ、その約60年続いた隆盛も終わりを告げた。
*中華王朝においては、イブン・ハルドゥーンの循環王朝史観、すなわち「文明の恵み(メー)」が屈強な辺境部族連合を誘致し、文弱化した旧支配階層を打倒してそれに成り代るもやがて自らも文弱化し滅びを待つのみとなるサイクルが近代まで繰り返され続ける。それから辛くも逃れ得たのは「プロセス完了を待たずに逃げた」匈奴とモンゴル世界帝国と大日本帝国くらいだという。それ以外で候補に残るのは「匈奴の片腕」高句麗末裔を自認する北朝鮮王朝くらい?

*とどのつまり日本人が日中戦争(1937年〜1945年)について真っ先に反省すべきは、どうして「負ければ日本が中国に吸収され、勝っても日本が中国を吸収して新たな中国になるだけの勝機なき戦い」を始めてしまったかという事なのではなかろうか。匈奴は既に敗北して飲み込まれ、モンゴル人も今尚戦い続けているくらいだから、この戦いは現在進行形で続いているといってよい。Watch out!! 中国人の反日感情など単なる誘い受けに過ぎない。乗せられて戦ったら今度こそ本当におしまいだ!!

そう、こうした考え方は最後には必ずフランス革命が大量虐殺を伴う壮絶な党争の末に「デモ隊など、どんなに大人数でも先頭の500人を榴散弾でミンチ肉に変えれば残りは逃げ散るのみ」と豪語する「砲兵将校」ナポレオンが最終勝者となる形で終わった歴史を繰り返してしまうのです。

そう「強い者が全てを総取りする世界では、最強でなければ全てを奪い尽くされる」なのですね。

講座派共産主義やが奉じた福本イズム革マル派が大衆を侮蔑しつつ外面的脅威への対応より内紛における勝利を優先するのは、そういう立場からなのです。

アレックス・カリニコス(Alex Callinicos)「アンチ資本主義宣言 グローバリゼーションに挑む(An Anti-Capitalist Manifesto 2003)」

そんな感じで以下続報…