「諸概念の迷宮(Things got frantic)」用語集

本編で頻繁に使うロジックと関連用語のまとめ。

【ハードボイルド文学論】ボードゲーム「ガイスター」で考えると浮かび上がる「愛なき世界」?

ピーターとゴートン「愛なき世界(1964年)」。British invasion最盛期で米国チャート上位20曲のうち7曲がイギリスのアーティストだった時代。彼らに対抗出来たのはビーチボーイズ、フォーシーズンズ、モータウンのアーティストくらいだったという…

そしてその歌詞内容がまさしく「(例えその先に待つのが破滅だとしても)神の用意した救済にあえて背を向けるロマン主義的内容なのですね。この時代のハードボイルド要素は、こんな場所にこんな形で隠れ潜んでいたという…

今回の投稿の発端は以下のTweet

古典的自由主義=第一世代フェミニズム」の出発点はコンドルセ侯爵(1743年~1794年)やジョン・スチュワート・ミル(1806年~1873年)の様な数学者が目標に設定した「大数の原理」。案外「誰が神に選ばれた成功すべき者か分からないのなら挑戦者は一人でも多い方がいい=身分制限も人種制限も性別制限も撤廃しよう」なる冷酷な打算に基づく考え方で人間中心主義(Humanism)から程遠い。

一方、エンルスト・ユンガー(1895年~1998年)の出発点は自らを「(第一次世界大戦が開始するまでは想像だにされた事もなかった「分隊単位の突撃の集積」によって構成される)浸透戦術の英雄」として形成していく過程で獲得した「周囲全てが敵兵だらけの状況下、10人未満の兵士集団が隠密行動で敵中突破を果たすのに必要な精神操縦方法」だったと言われている。「神話は先史時代の遺物ではない。時代を超越して歴史の中で繰り返される現実である」。

  • これについて興味深い大日本帝国時代の逸話が存在する。石原莞爾指揮下の部隊が「南無妙法蓮華経」と御題目を唱えながら一心不乱に突撃する様があまりに見事なので他の部隊長が部下にやらせてみたが上手くいかない。それで石原莞爾本人にコツを尋ねたら叱り飛ばされたという。「俺が御題目を唱えるのは、敬虔な法華教徒でそうすると心が落ち着くからだ。別に部下に強要してなどないが、上官の心の落ち着け方を真似すると自分の心も落ち着く気がするというので黙認している。その点、お前がやらかしたのは一体何だ? 自分が帰依もしてない信仰を部下に強要して上手くいく筈がなかろうよ

  • それは実は同時に九割九分九厘まで「総力戦に向けて国民一人一人に施す反復訓練」の成果であり、こうした訓練は(工業制手工業や機械式工業への推移を可能とする)資本主義的発展にも役立つが(領主を選択する在地有力者が立脚する伝統的地域共同体崩壊を伴うので)所謂「封建制(Feudalism)=領主が領土や領民を全人格的に代表する農本主義的権威体制」を脅かす。

  • その一方で単なる「国教問題」に還元され、近世的主権国家の礎となる訳でもない。人間をもっと自由な方向に解放しなければ資本主義的発展には至らない。

一方、大坪砂男私刑(1949年)」によって深作欣二監督映画「仁義なき戦いシリーズ(1973年~1976年6本)」に至るフォーマットが準備されるに至ったとされる「焼け跡ハードボイルド」ジャンルの概念展開そのものはさらに広大である。

まず認識論的にここでつまづいてしまう人がいる。

この人物は大藪春彦の大ファンらしいが大坪砂男柴田錬三郎眠狂四郎シリーズ(1956年~)」笹沢左保木枯し紋次郎シリーズ(1971年~)」さらには「戦後には仁義の理念は滅び、もうお金くらいしか命を賭ける価値のある概念がなくなってしまった」とする阿佐田哲也麻雀放浪記(1969年~1972年)」から能條純一麻雀飛翔伝 哭きの竜(1985年~1990年)」福本伸行アカギ・シリーズ(1992年~)」「カイジ・シリーズ(1996年~)」に繋がる「焼け跡イデオロギー」の最初の提唱者だった事を見落としている。だから結果として私の話に同意した事になる事に気付いてない。創元社文庫「大坪砂男全集3私刑」は所有している様で、そこに全部書いてある話なのだが…

 

一方、以下に述べる様に「アプリゲール犯罪そのもの」が創作者や読者に魅力的に映ったのは1950年代までで、それを題材に最初に名声を得た大藪春彦も「野獣死すべし(1958年)」の主人公伊達邦彦を1960年代に入るとスパイ謀略物ブームにかこつけて(国家機関に過去を調べ上げられて脅され)国際エージェントとして活躍。最終的には「(報償として)過去の全犯罪履歴を抹消され真人間に戻るハッピーエンド」を迎えている。「赤いハードボイルド作家」と呼ばれ、同じ「暗い過去を有する国際スパイ」を主人公に選びつつ、その暗黒面もしっかり描き切った船戸与一と異なり、もし本気で「無条件で活動家に両手を挙げて歓迎された」としたらそういうファンタジー性を評価されたのだろう。「ヴィドック回顧録」におけるヴィドックの「権力に追われる側から権力の手先への華麗な転身」をそのままなぞったとも。ちなみかかる転身の葛藤はヴィクトル・ユーゴーレ・ミゼラブル(1862年)」におけるジャン・バルジャンベジャール警部の葛藤そのものであり、かつ「両サイドの経験が人間的円熟味を増す」と解釈すると池波正太郎鬼平犯科帳シリーズ(1967年~1989年)」になる。

  • もちろん必ず実際に転身が成功するかというと…

  • 中東を舞台とするエフィンジャーの電脳三部作(1987年~1991年)は「ハードボイルド+サイバーパンク」というフォーマットで「権力者の手先と成り果てた主人公に何が出来るか」追求する野心的試みを行った。

  • しかし21世紀に入ると主人公が公権力側の立場に立つ事はそう珍しくなくなる。

まぁこういう人生を送ってきた様な人物なのである。

こういう話も。

ちなみに安田講堂陥落(1969年)によってTVの「忍者アワー放映枠」を失った白土三平は「カムイ伝(1964年~1971年)」で理想論を語り過ぎた事を反省しギリシャ神話研究から自らの「(時代も場所も超越して存在する)神話構成力」を再建する道を選んでいる。

それはそれで厳しい道といえるが、そうして到達する「(仮象の極限としての)三昧の境地」の最も著名な成功例は科学実用主義(Scientific Pragmatism)であり、最終的に問題は「コンドルセ公爵とジョン・スチュワート・ミル古典的自由主義」に回帰するという考え方もあったりする。

  • 虚無主義剣士・机竜之助を主人公とした中里介山の小説「大菩薩峠(1913年~1941年)」の迷走から出発し「完全犯罪に成功したアプレゲール(1960年代スパイブームに便乗して)国家機関のスパイ活動に動員される代償に過去を抹消されるハッピーエンドに進む大藪春彦野獣死すべし」シリーズ(1958年~1995年)を経て「新撰組参入により経歴ロンダリングを図る机竜之助(仲代達矢)が正義の剣士(三船敏郎)との邂逅を経て発狂し主人たる新撰組に牙を剥く場面で終わる岡本喜八監督映画「大菩薩峠(1966年)」に至るルート。その間に大坪砂男自身は柴田錬三郎眠狂四郎(1956年~)」のアイディアマンに転じ(「俺達に明日ばない(1967年)」の様なアメリカンニューシネマの影響を受けた)笹沢左保木枯し紋次郎シリーズ(1971年~)」や(マカロニ・ウェスタンの影響も受けた)劇画のニヒルな剣士が活躍する潮流に吸収される展開を迎えた。


    実はスターウォーズ新トリロジー開始に当たって「アダムドライバー演じるカイロ・レンは(仲代達矢が演じた)岡本喜八版机竜之介」という予測が海外ファンの間に存在。結局「父たるハン・ソロ船長を斬って人外の境地に落ちる」「(オリジナル版では三船敏郎が演じた)正義の戦士ルーク・スカイウォーカー(マーク・ハミル)との対峙に苦しむ」「結局、自らの内面的悪を肯定してくれた組織(新撰組=ファースト・オーダー)を裏切り、そのメンバー(新撰組隊士=ロイヤルガード)と対決」まで全部当てたが、オリジナルのシャープで疾走感溢れる物語展開に欠け、かえってブーイングの声を大きくしただけだったのである。

  • 復興期における地回り愚連隊の暗躍やアプレゲール犯罪に同情しつつ「悪は自明の利として滅ぶ」物語展開そのものは愚直中でに遵守し続けた黒澤明監督の「醉いどれ天使(1948年)」「野良犬(1949年)」「醜聞(1950年)」の世界。

    悪い奴ほどよく眠る(1960年)」については、フランシス・コッポラ監督が同じ内容を「犯罪を家業とする家父長制の荘厳さ」に昇華させた「ゴッドファーザー(原作1969年、映画1972年)」に完敗。この作品の国際的ヒットを契機に東映で「仁義なき戦い(1973年~1976年)」企画が通った。


    一方傑作と名高い「天国と地獄(1963年)」で回想される復興期の回想には「闇市とそれを仕切る愚連隊」も「アプレゲール犯罪」も登場しない。当時の黒澤明は「用心棒(1961年)」「椿三十郎(1962年)」「赤ひげ(1965年)」といったハードボイルド・タッチの作品で国際的に名を馳せたが、ここでいうハードボイルドはあくまで山本周五郎ヒューマニズムに立脚した内容であり、自らの「焼け跡ハードボイルド」スタイルの再生産ではなかったのである。


    むしろピカレスク文学としては高木彬光白昼の死角(原作1959年~1960年,TVドラマ化1963年,東映映画化1979年)」が時代性の超越を達成した感がある。アプレゲール犯罪として始まったそれが破綻していく過程をしっかり描いたからであろう。

  • ヘイズコード規定「ギャングとその情婦を美化して描いてはならない」を逆手に取って犯罪行為を徹底的にリアリズムを込めて無残に描きつつ、そこにある種の抒情性を宿らせる手法。ハワード・ヒューズ制作「暗黒街の顔役(Scarface,1932年、リメイク1974年)」から出発し「仁義なき戦いシリーズ(1973年~1976年)」もこれに含まれる。ここでは日本の「焼け跡ハードボイルド」概念がアメリカにおける「新興移民の自警団結成/地回りギャング台頭」に置換されたりする点に注意。

    角川映画蘇る金狼(1979年,)」「汚れた英雄(1980年)」「野獣死すべし(1982年)」はそれぞれ主人公が最後に無残な自業自得の最後を遂げるという点でこちらに分類される。ちなみにこの時代のハードボイルドは当時の栗本薫作品を一望しても明らかな様に「近代組織に馴染めない時代遅れのアウトローが悲壮な最後を遂げる」物語が多く、そのフォーマットに合わせたものとも。

そもそも最初から無条件に縋れる「神話」が存在する時点で、それはもはやハードボイルド文学ではない。その一方で「縋れる候補」さえ存在しない作品もまたハードボイルド文学ではないという考え方こそが大坪砂男の「泥の大海に蓮の花を探す感傷主義」チャンドラーの「タフでなければ生き延びられない。タフなだけでは生き延びる資格がない」という次第。ならば「大菩薩峠」の机竜之介は何を探して彷徨しているのか。それは当人や作者も含め誰も分からないのである。

そもそも太陽王ルイ14世が遺言に残した様に「支配する側は配下の誰の肩も特別に持たず、互いを牽制させて調停役として漁夫の利だけ持っていくのが至高」という考え方もあって、この場合だと「自らの血を継承する後継者」とかでないと青駒の条件を満たさない。江戸時代の商家における「息子は生まれてもさっさと養子に出してしまい、跡取り娘の座を番頭に争わせる」仁義なき繁盛戦略はこうして生まれたのである。

一方「(たとえその先に破滅しか待ってなくても)神の用意した救済を拒絶する」19世紀的貴族ロマン主義。(産業革命導入後の大量生産/大量消費の時代には)消費の主体が王侯貴族や聖職者から新興産業階層や庶民に移りたちまち人気をなくし、むしろ映画の時代にはその不人気を逆用して「ユニバーサル・モンスター詰め合わせ」まで準備される展開に。

  • ドラキュラ伯爵オスマン軍団に恐れられた実在の好戦的英雄王。オスマン帝国との関係悪化を恐れるハンガリー王に幽閉され「吸血鬼である」という噂を流された。当時の史料をブラム・ストーカーが発掘して作品の下敷きに。

  • フランケンシュタイン博士錬金術と科学の挟間を彷徨う貴族が「怪物」を生み出してしまい、それに命を狙われる。映画版では原作者シェリー夫人と「怪物の花嫁」が一人二役を演じた。

  • ミイラ男…王女に邪な恋心を抱いてしまったファラオの家臣。現世に蘇り王女の生まれ代わりを探す。当時のエジプト発掘ブームの影響を受けて新設。

  • オペラ座の怪人…妖怪「刑部姫」みたいな一国一城の秘密の主人。気に入った歌手を指導したりライバルを除いたりしてスターに仕立て上げたりする。

  • 狼男…「定期的に人を食い殺したくなる」症状ゆえ定住が許されない逃亡者。映画版では「(漂泊を余儀なくされる現状とのギャップを強調すべく)名門貴族の家系」という設定が追加される事もある(オリジナルは狼憑きの神父が強姦によって産ませた私児)。

  • 透明人間…実験の成果を出そうと焦るあまり人間を捨てた科学者。普段は全身を包帯で巻いた異様な姿なので一箇所に止まれない。

  • 半魚人…未開の地に隠れ潜んでいた異類。「近隣部族の神」説も。

ハロウィンの都度「お前が分類に入ってるのはおかしい」論争が。特にロマン主義的苦悩とたった一人無縁の半魚人の立場たるや…

この辺りの話は岩明均寄生獣(Parasyte,1988年~1995年)」に登場する殺人鬼浦上のエピソードとも重なる。まさしく「人間が人間であるとはどういう事か」問われるのである。

こうして話は再び大坪砂男の「泥の大海に蓮の花を探す感傷主義」とチャンドラーの「タフでなければ生き延びられない。タフなだけでは生き延びる資格がない」の世界に戻ってくるが、それだけに収まらない展開も。

そう、まさしく「教祖同士のバトルロワイヤルが全て」のデビッド・クローネンバーグ映画「スキャナーズ(Scanners,1981年)」の世界?

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そんな感じで以下続報…