「諸概念の迷宮(Things got frantic)」用語集

本編で頻繁に使うロジックと関連用語のまとめ。

【用語集】「ヒッピー型思考」①ヒッピー登場前夜の風景について。

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そもそもアメリカは「移民の国」です。

ジョン・スタインベックアメリカとアメリカ人(America and Americans,1966年)」

アイルランド系が嫌われ者の役を引き受けてくれるまでドイツ系が自衛の為に寄り添っていた時代を忘れるな。そのアイルランド系もポーランド系が往来するとアメリカ人の仲間入りを果たした。南イタリアから移民が押し寄せる様になってスラブ系移民がそう見做される様になったのと同様に」

それで国勢調査の必要性からパンチカーシステムやコンピュータの発達が促進されました。こうしたデータに裏付けられる形でアメリ社会学実証主義的アプローチを採択する事になったのです。

アメリカにおけるコンピューター利用史はタビュレーティングマシンTabulating machine、パンチカードシステム)を使った1890年における米国国勢調査のデータ処理にまで遡る。

  • タビュレーティングマシン(Tabulating machine)…日本では「パンチカードシステム」の呼称で親しまれる。原理はオルゴールそのもの。紙や金属やセルロイド製の円盤やリボンの表面に穴を穿ったり突起を刻印したりして記憶媒体として利用する。

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チャールズ・バベッジは機械式の自動計算機としては非常に大規模なものを設計し制作。1833年には数表作成用の階差機関の開発からより汎用的な解析機関へと興味を移したが、この時にジャカールのパンチカードをプログラムの表現に使った(ジャカード織機では、カードの穴は経糸の上げ下げを直接示すだけだが、これはコード化である)。

  • 1835年に記されたその解析機関についての記述によれば汎用のプログラム可能なコンピュータであり、入力にはパンチカード、動力源には蒸気機関を採用し、歯車や軸の位置で数値を表すものとされている。元々は対数表を高精度で作成することを目的としていたが、すぐにそれ以外の用途にも使える汎用プログラム可能コンピュータとして構想を発展させたが、機械製作を担当した職人との不和など様々な要因が重なって頓挫。プロジェクトへのイギリス政府の出資も中止となった。
  • ちなみにこの頃、ジョージ・ゴードン・バイロンの娘エイダ・ラブレスがFederico Luigi, Conte Menabrea の著した "Sketch of the Analytical Engine" を英訳し、大量の注釈を付記している。これが世界初のプログラミングについての出版物とされる。またダブリン出身の会計士 Percy Ludgate はバベッジの業績を知らなかったが、独自にプログラム可能なコンピュータを設計し、1909年に出版した著作にそれを記している。
  • 階差機関の初期の限定的設計のものを再現する計画が1991年、サイエンス・ミュージアムで実施された。いくつかの瑣末な修正を施し、バベッジの設計通りに動くことが確認され、時代を遥かに先行していたバベッジの設計が正しかったことが証明された。部品製作にはコンピュータ制御の工作機械を使ったが、当時の職人のレベルに合わせて誤差を生じるようにしている。

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1880年代末アメリカのハーマン・ホレリスは機械で読み取り可能な形で媒体にデータを記録する方法を発明。それまで機械が読み取り可能な形で媒体に記録されているのはあくまで(ピアノロールやジャカード織機の様な)制御情報であって、データではなかった。

  • 当初紙テープを試したが、最終的にパンチカードに到達。鉄道の車掌が切符に鋏を入れる様を見て思いついたという。パンチカードに穴を開けるキーパンチ機とそれを処理するタビュレーティングマシンを発明し、これが現代の情報処理発展の基盤となった。機械式カウンタとして、リレー(とソレノイド)を使っている。
  • アメリカでの1890年国勢調査に使われ、予定の数カ月前に集計を終え、予算も抑えることに貢献した。前回の国勢調査よりも数年短い期間で集計を終えている。このホレリスの創業した会社が後にIBMの中核となる。
  • Leslie Comrieのパンチカード技術に関する記事やウォーレス・ジョン・エッカートの著書 Punched Card Methods in Scientific Computation (1940) によれば、パンチカードシステムは微分方程式を解いたり、浮動小数点数の乗除算を行うことも 出来て第二次世界大戦中には暗号の統計処理にも使われた。またコロンビア大学Thomas J. Watson Astronomical Computing Bureau(後のトーマス・J・ワトソン研究所)では、最先端のコンピューティングとしてパンチカードシステムを使った天文学の計算が行われていた。

IBMはパンチカード技術を発展させて一連の商用データ処理機器(パンチカードシステム)を開発。1950年頃までに産業界や政府で広く使われるようになっている。文書として一般人が手にするようになったカード(小切手や公共料金の明細など)には "Do not fold, spindle or mutilate"(折ったり穴を開けたり破いたりしないでください)という警告が印刷され、第二次世界大戦後の時代を表すキャッチフレーズとなった。

  • パンチカードは、初期のコンピュータでも入力メディアとして鑽孔テープとともに使われた。IBMなどパンチカードマシンのメーカーがコンピュータに乗り出してきて、コンピュータが設置された「計算センター」を設置。そこでは以下のような光景が見られた。①ユーザーはプログラムをパンチカードの束の形で計算センターに提出する(プログラムの1行がパンチカード1枚に対応)。②カードが読み取られて処理のキューに入れられ、順番がくるとコンパイルされて実行される。③結果は提出者の何らかの識別と共にプリンターで印字され、計算センターのロビーなどに置かれる。多くの場合、その結果はコンパイルエラーや実行エラーの羅列であり、さらなるデバッグと再試行を必要とする。パンチカードは今でも使われており、その寸法(および80桁の容量)が様々な面で影響を及ぼしている。その寸法はホレリスのころのアメリカ合衆国の紙幣と同じで、紙幣を数える機械が流用できるためその寸法を採用した。

こうした展開が音声記録技術として独自発展を遂げてきたレコード技術や磁気テープ技術と合流を果たしたのは、世界初の商用コンピューターUNIVAC I(Universal Automatic Computer=万能自動計算機,1951年)が金属テープを使用したタビュレーティングシステムを付属入出力装置として搭載し、これへの対抗策として翌年IBM社がイメーション社(現在の3M社)の開発したModel726磁気テープユニット(1952年)を発表して以降となる。

その流れは第一次世界大戦を契機に加速。「狂乱の1920年」を現出させます。

この過程が「移民の国」としてのアメリカに大きな変化を及ぼすのです。

20世紀前半までのアメリカにおいては「旧移民(プロテスタント勢=英国人およびアイルランド支配階層)」と「新移民(カソリックアイルランド被支配階層やオーストリア=ハンガリー二重帝国の被支配階層としてのユダヤ)」の対立が激しく、それが「禁酒法」「ヘイズコード」を巡る論争として現れた。

しかし太平洋戦争に向けての挙国一致体制構築の過程で両者は野合を強いられる。そして双方の宗教的保守派がお互いの足を引っ張り合うより、成果を競争しあう様になって対立を続ける意義自体が消失してしまうのである。

フランスでも第二帝政(1852年~1870年)より産業革命が本格的。その結果成り上がった新興中流階層が(ブルジョワ階層が奉じる)伝統的価値観に迎合してポルノグラフィ(売春婦芸術)や印象派芸術への弾圧を支持する側に回りました。

同等に米国における「黄金の1950年代」は科学主義が横溢する一方で、性表現規制ガチガチの堅苦しい世界となったのです。

 司馬遼太郎アメリカ素描(1985年)」より

アメリカの白人は1950年代を懐かしむ。日本で言えば昭和25年頃から昭和30年代中頃にかけてという事になる。

それまでどこか欧州に劣等感を懐いていたアメリカ人が、第二次世界大戦参加を通じてその救世主となり自らも救った。さらには戦勝者となる事で自己文明の圧倒的優位感を勝ち取った。そうした自惚れが米国文化を照り映えさせ、その感覚が終戦より15年前後ほど持続したのである。

いい時代だったと誰もが言いますね

と、ニュートークの山口勉氏にいうと古本屋で勝ってきた一冊の写真集をくれた。表紙に「THE FIFTIES」の文字。

なにげに開いたページでは1959年における「アラモ砦」の撮影現場でジョン・ウェインが画面一杯にその存在感をみなぎらせて元気付けの注射を打たれている。1955年の街角は透明な哀しみに包まれた喪服の黒人男女で埋め尽くされていた。棺が運び出される瞬間を切り取った写真で気を失いかけた未亡人を参列した中年紳士達が支えている。1951年の写真では「正義の戦い」から返ってきた海兵隊兵士がレインコート姿の母親と抱き合っていた。洋服屋の様な顔付きのトルーマン大統領に解任されたマッカーサー元帥が、朝鮮から帰ってきて早々皺だらけのトレンチコート姿でオープンカーの席上に立ち上がり、いかにも英雄的演技者らしく右手を振り上げていた。

巷の結婚式の写真も多数収録されている。どれもが簡素で厳粛で清潔感にあふれ、花嫁も出席する婦人達も薔薇の原種の様に開拓時代の女達のい様な清楚さを漂わせている。そして1959年の写真ではハリウッドを訪れたソ連首相フルシチョフが女優シャーリー・マックリーンにおでこを撫でられている。アメリカ人にとって1950年代とは、まさしくこうした「珠玉の瞬間」を無数に詰め込んだ宝石箱の様な時代だった訳である。

1960年代に入ると誰にも予想だにし得なかった社会的変動が相次いで、何もかもが変わってしまった。それまでアメリカを支えてきた自尊心もすっかり腐り果ててしまった。1960年には43歳のジョン・F・ケネディ大統領が大統領に当選。散文的で皮肉屋で番頭の様に小市民的で昼行灯の様にぼんやりしたトルーマン大統領と異なり、ドラマチックで活動的で強い意志を備えた政治家だった。この様な政治家の登場は常に歴史に乱世をもたらす。就任2年目にベトナム戦争への直接介入を発表。就任3年目に暗殺されて世界に衝撃を与える。ベトナム戦争は次第に泥沼化していきアメリカの万能感は跡形もなく砕かれる。その隙を突いた形で1967年から1968年にかけて黒人の暴動が燃え盛る。日本における応仁の乱がある種の生理学的革命現象だった様に、1950年アメリカに漲っていた破棄はこの時から自滅に向かい始める…

ヒッピー運動は、まさにこうした時代への反動として生じたのでした。