「諸概念の迷宮(Things got frantic)」用語集

本編で頻繁に使うロジックと関連用語のまとめ。

【用語集】ニューロマ(The New Romantic movement )とパンク(The Punk movement )②エレクトロPOPへの道筋

とりあえずこれも自分の音楽観を巡る主観的時間の積み重ね方を確認する旅の一つ。

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 以下の投稿の続き。

  • YMOは手堅く初アルバム「イエロー・マジック・オーケストラ (YELLOW MAGIC ORCHESTRA, 1978年) 」では(どうやらウクライナ出身のセルジュ・ゲーンズブルグがフランスに持ち込んだエスニックな音色という認識もあるらしい)ズンドコ・ベースを「中国女(La Femme Chinoise)」に仕込んだりマリンバの名曲マーティン・デニーFire Clacker(1959年)」をカバーしたりしながらキーボードとリズムマシンを駆使するエレクトロ・ポップの可能性を広げていった。

    歌詞に関して作詞者であるクリス・モスデルは、以下のようにコメントしている。

    • その内容は、リチャード・クワイン監督、ナンシー・クワン主演のハリウッド映画『スージー・ウォンの世界The World of Suzie Wong, 1960年)』そのものである。この映画はクレイジーケンバンドも曲にしている。

      粗筋

      アメリカ人建築家ロバート・ロマックスは画家を志望し香港に1年間の予定で移住する。香港島に向かうスターフェリーの上で社会的地位の高い若い女性ミー・リンと出会う。ミー・リンはロバートが財布を盗んだと勘違いして逮捕させようとするが、誤解が解け別々の道を行く。

      資金難のためロバートは悪名高い湾仔地区の安宿を探す。ロバートは偶然ミー・リンが地区内の粗末なホテルから出てくるのを見かける。ホテル所有者アー・トンに短期間で借りるより月単位で借りた方が得だと聞き驚く。隣のバーでセクシーな赤いチャイナドレスを着たミー・リンが水夫と仲良くしているのを見つける。しかし彼女はミー・リンではなくスージー・ウォンと名乗る。

      翌日、ロバートは口座開設のため銀行に行く。支配人の娘であり秘書のケイ・オニールはロバートに一目惚れする。

      ロバートはスージーに絵のモデルになってくれるよう頼む。互いのことをよく知るようになると、ロバートはスージーが10歳の頃から生活のために仕事をしていることを知る。スージーはロバートに惹かれていくが、ロバートも惹かれながらもスージーに思いとどまらせようとする。その一方ロバートはケイからパーティに招待される。ケイが主催するパーティでロバートはスージーの顧客の1人であるベン・マーロウが妻と共に参加していることを知る。

      ベンはスージーに愛人になるよう説得し、スージーはロバートを嫉妬させるためにこれを受け入れる。ベンが妻と仲直りをし、ベンはロバートにスージーと別れさせてくれるよう頼む。スージーが傷心しているところに、ロバートはついに愛を告げる。

      最初こそうまくいっていたが、次第にうまくいかなくなってくる。ある日、スージーが度々いなくなることを不審に思ったロバートはスージーを追跡する。するとスージーに隠し子がいることが発覚するが、ロバートは受け入れる。

      ロバートは絵の売却に失敗し、経済危機に陥り、ケイもスージーも援助を申し出るがロバートはプライドにかけて断る。スージーがロバートの宿泊代を支払い、彼を助けるために売春業に戻ると告げると、ロバートは怒ってスージーを追い出す。ロバートは自分の間違いに気づき、スージーを探す。ついにスージーを見つけた時、ロバートはスージーの息子が土砂崩れで亡くなったことを知る。ロバートとスージーは互いに愛を誓いあう。

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    • 元々は「スージー・ウォン・アンド・シャンハイ・ドールズ」というタイトルで、歌われている部分よりもずっと長い歌詞だったが、ここから高橋がピックアップして使われた。
      *「悲劇的叙事詩をダンサブルなビートに載せて歌う」無限遠点戦略敗退との関係は不明だが、そもそもこの曲の採用によりYMOがインスト・バンドではなくヴォーカル・グループと規定された事が大きかったという話も。
    • フランス語の女性ヴォイスは当時アルファレコード社長秘書だった布井(江部)智子で、アイデアは細野によるもの。

    曲のタイトルはジャン=リュック・ゴダール監督の映画『中国女La Chinoise, 1967年)』から取られている。アンディ・ウォーホルのキャンベル缶の様に大量に登場する毛沢東語録、バカンス期に合宿してラジオの北京放送を聴き込み、気に入らない文化人の暗殺を計画する若者達。中華人民共和国文化大革命の最中でその運動が世界の青年層に影響を与えていた状況を描くが監督を筆頭にマルクス主義毛沢東イデオロギーをちゃんと習得していた者がほとんどいなかったファッション左翼映画でもあり、本物の左翼からは「泳ぎも学ばず海に飛び込んだ愚行」と酷評されている。

    ちなみにその後のボニーBはこんな曲を演っていた模様。ズンドコしてる。あまり話題にはならなかった。

    一方、YMOは1stアルバムの黎明状態から逸早く脱却し「テクノポリス (TECHNOPOLIS, 1979年) 」の様にあえて無機質に演奏したり「ライディーン雷電, RYDEEN, 1980年)」の様にあえて熱く演奏したりといった試行錯誤を繰り返しながら代表曲を踏み上げていく。

    こうして全体像を俯瞰すると、むしろ「怪僧ラスプーチン(Rusputin, 1978年)」が国際的ヒットを飛ばしエスニック・ブームが到来した時点で「リスナーが新しいサウンドを求めている→エレクトロ・ポップの時代が来る」みたいな発想の飛躍、すなわち大胆な無限遠点的設定の切替に着手したユニットが次の時代を席巻した様にも見えます。YMOでは細野晴臣がこの流れを主導する一方、VisageではSteave StrangeRusty Eganがナイトクラブ経営を通じて「ボコーダーを使うと客の反応が変わる」みたいな実践知を積み上げていった情景が思い浮かぶ。
    ティーヴ・ストレンジSteve Strange, 1959年~2015年

イギリス、ウェールズ出身の歌手、シンガーソングライター。ニューロマンティックの代表的バンドたるヴィサージVisage, 1978年~1985年)の中心人物として知られる。グループ名はヴィジュアルVisual)、ビザVisa)、AGEの三つの言葉を掛けたもの。

  • 1959年ウェールズのケアフィリに生まれる。
  • 1976年セックス・ピストルズのギグを観た後、グレン・マトロックと親しくなる。ピストルズのマネージャーであるマルコム・マクラーレンの下で働くためロンドンに向かい、そこで自身のパンクバンドThe Moors Murderersを結成するが1年ほどで解散。The Photonsというバンドでも一時的にボーカルとして参加した。
    *私自身は割とロンドン・パンク・ムーブメント自体は「マルコム・マクラーレンの商業的実験」に過ぎず音楽イデオロギーとして成立していたかも疑問という立場。ライブを騒々しいナンバーだけで埋めると客が疲れちゃうのでジャマイカン・レゲエとか混ぜたら「それだけ演奏する」ポリスがメジャー・デビューするわ、Clashのジョー・ストラマーもその後ワールド・ミュージック方面に転身しちゃうわで、あまりにも愛が感じられないからである。Steve Strangeもこの文脈だと列記としたロンドン・パンク出身者…

  • またこの頃ロンドンでヴィサージのメンバーであるラスティ・イーガンと共にナイトクラブを立ち上げ、ホストやDJとしても活動した。ニューロマンティックというジャンル自体が彼が主宰していたクラブ・ビリーズで開催されていたデヴィッド・ボウイ・ナイトを発祥とする。またこのナイトクラブはヨーロッパに初めてYMOを紹介した事でも知られる。

  • 1978年にリッチ・キッズ、マガジンのメンバーらと共にシンセポップバンド、ヴィサージを結成。この頃にスティーヴ・ストレンジというステージネームで活動するようになる。バンドは'80年代ニューロマンティックムーブメントの立役者として人気を博した。ヴィサージは3枚のアルバムを発表した後、1985年に解散。

解散後にThe Photonsのメンバーだったウェンディ・ウーと共にストレンジ・クルーズを結成し、アルバム『ストレンジ・クルーズ』を発表するが商業的・批評的に失敗に終わり、1986年に解散。'80年代後半からは音楽業界から一旦身を引き、スペインのリゾート地であるイビサ島のクラブでホストを務めた。

  • 自身のセクシュアリティについて曖昧であり、男性・女性共に肉体関係を持ったことを明かしている。また長い間ヘロイン中毒、精神的な病に悩まされ、万引きで逮捕され3ヶ月の懲役刑を受けたこともある。2002年には自叙伝『Blitzed!』を出版し、自身の性や私生活上のトラブル、復活への意欲についての内容をまとめた。
  • 2002年に'80年代に活躍したアーティストのライヴ・ツアー「Here and Now Tour」に参加し、ヴィサージ時代の曲を歌った。2004年からはVisage Mk IIの名で様々なエレクトロニックミュージシャンと共にヴィサージを再結成させ、本格的な活動復帰に至る。

2015年2月12日心臓発作でエジプト、シャルム・エル・シェイクの病院で死去。享年55歳。

こんなにもニューロマテクノの源流が重なっていたなんて…というか割と歴史の最初期時点では特に客層も重なっていたかもしれない。当時、YMOをさらにニューロマに寄せたのがピーター・バラカンの「無意味スレスレの情景描写に終始する散文的歌詞」。ニューロマのそれが「(やっと第一次世界大戦第二次世界大戦の大規模破壊の痛手から回復して国際的主要経済圏の一部に返り咲いたものの、まだ自分達に世界に発信し得る何かなんて残っているのだろうか?」なるニヒリズムだったのに対し、日本のそれは次第に科学的マルクス主義崩壊後の空隙を埋めた空疎なニュー・アカデミズム的言説と結びついていった感がある。

例えば当時の関連アーティストのナンバーを大量に含んで 「New York Punk movementの金字塔」といわれる事もある映画「Times Square(1980年)」のキャッチーなOP曲を本歌取りしたと目されるYMOBGM(1981年)」の第一曲目「Ballet/バレー」のあまりといえばあまりな無機質処理…

かと思えば同アルバム収録のキュー(CUE)はUltravoxPassionate Reply(1981年)」にインスパイアされた細野晴臣高橋幸宏が一気に二人で二日で作り上げた曲と明言されているが(おそらく「君に胸キュン」に繋がる)一点の曇りもない明るいPOP Tune(しかも元曲を超える勢いで緻密に練りこまれた開放感)だったりする。坂本龍一がウルトラヴォックスを真似た曲であることに反発して作成に一切タッチしてないのも興味深い逸話…

逆にマイケル・ジャクソンエリック・クラプトンに「これもっとダンサブルなPOP Tuneでやれんじゃん」と看過された曲もあった。


まぁ全体像を俯瞰してみるとギター・オリエンテッド・バンドのVan Halenがエレクトロポップの勢いにあやかりたくてキーボードがメインリフを奏でる「Jump(1983年)」とか売り出しちゃう様な時代でもあったのである。