「諸概念の迷宮(Things got frantic)」用語集

本編で頻繁に使うロジックと関連用語のまとめ。

【「諸概念の迷宮」用語集】エジプトのユダヤ人

f:id:ochimusha01:20200710081534p:plain

最初の殉教者ステファノ?~35年/36年頃没)に至る話…

 レイモンド・P・シェインドリン「ユダヤ人の歴史」より

エジプトにおいては少なくとも紀元前7世紀中旬からアスワン近くのナイル川中州のエレファンティンにユダヤ人傭兵の駐屯地が存在してきたのである。この入植地は200年以上に渡ってペルシャ帝国のユダヤ属領と交流を続けたが、同時にエルサレムと同じ様に神殿に生贄を捧げ続けてきたし、それはエルサレムの最初の神殿が破壊されて以降もずっと絶える事なく続けられてきた。

  • 生贄を捧げる宗教行事を行って良いのはエルサレム神殿のみ」という原理原則に拘泥するユダヤ人指導者達は、何とかこれを規制しようとし続けていたが、寺院そのものを閉鎖する様な動きまでは起こらなかった様である。

紀元前410年にエジプトの一部の部隊がペルシャの支配に対して反乱を起こすと(この時、エレファンティンのユダヤ人守備隊はペルシャ皇帝への忠誠を覆さず鎮圧側に回った)、雄羊の頭を持つ神クウムを崇拝するエジプトの神殿の僧侶達がユダヤ神殿破壊を扇動した。これはユダヤの神殿が動物の生贄を捧げる事に対して日頃から反感を持ってた反映とみられている。反乱鎮圧に当たってその壮大な建造物の重要性を認識していたペルシャの指導者達は、エレファンテンの神殿の再建こそ認めたものの、ユダヤとエジプト双方に配慮して動物の生贄を禁止し、供物は以降農作物に限るとした。こうして神殿は再建されたが、結局エレファンテンにおけるユダヤ人社会は紀元前4世紀初頭に消滅してしまう。

  • エレファンティネ文書…エレファンティネに大きなユダヤ人共同体が存在したことは紀元前5世紀に年代づけられるエレファンティネ出土のアラム語パピルス(ブルックリン博物館所蔵)によって知られる。アラム語はペルシア帝国の公用語であり、このパピルスが書かれた当時エジプトはペルシア帝国の支配下にあった。パピルスの詳細についてはEdward Bleiberg, Jewish Life in Ancient Egypt : A Family Archive from the Nile Valley, Brooklyn, 2002.を読めば分かるのだが、ユダヤ人たちはシリア人とアラム人出身の傭兵隊に加わってエジプトの南の国境を防衛していた。彼らは律法に反してエレファンティネに神殿を建て、そこで神を礼拝した。また唯一神であるべき神に「天の女王」と呼ばれる配偶神を置いた。さらにそれらの神々とともに、エレファンティネで信仰されていた「第一カタラクトの守護神」クヌムにも敬意を払った。ちなみに、クヌムは牡羊の頭部を持つ男性の神として表現され、牡羊はクヌム神の聖獣であった。紀元前5世紀以後のエレファンティネにおけるユダヤ人とエジプト人の関係については不明だが、何か問題が起こったに違いない。というのは、エレファンティネのユダヤ人の神殿は一度破壊されているからである。

  • 詳細は伝わらないが、他にもエジプトには紀元前587年におけるユダ王国崩壊後、北部エジプトに逃れたユダヤ人達がいた。イラクにおけるユダヤ人社会は1951年まで続き、エジプトに根付いたユダヤ人社会も(今ではもうさすがに見られないが)何度も消滅の危機に直面しつつも最近まで逞しく生き延びてきた。

ちなみにアケメネス朝ペルシャ時代の東地中海世界では同時期、フェニキア人諸都市がシドンを盟主としてペルシャ帝国の権威に縋りつつアナトリア半島沿岸の制海権を奪い返そうとしていた。しかし逆にアレキサンダー大王の遠征がアケメネス朝ペルシャを滅ぼしてしまい、その死後彼の帝国は将軍達によって分割される事になる。そしてセレシリアとして知られるユダヤ地域を含む地中海東岸は古代イスラエル王国時代と同様にメソポタミア勢力とエジプト勢力が覇権を争う場となる。 

それに伴ってユダヤ人も二つの区域に別れて暮らす事となった。

エジプトのディアスポラ社会が属したプトレオマイオス朝エジプト紀元前30年まで存続における展開

紀元前301年にエジプト勢がメソポタミア勢に勝利を収めた結果、プトレオマイオス朝エジプトがまずこの地を収める事になった。プトレオマイオス朝エジプトはユダヤ人への干渉を控え、神官と長老達による神権政治を行う事を認めたのでエジプトにおけるユダヤ人社会は急速に発展し、特に新興都市アレキサンドリアユダヤ人社会の一代中心地となったのである。このプトレオマイオス朝エジプトでも、ユダヤ人はエレファンテン守備隊同様に傭兵として重要な役割を果たしていたが、彼らはすっかりギリシャ化してしまい、法律上もギリシャ人として扱われていた。この事は階級的に彼らが被支配階層たるエジプト人の上位に立つ事を意味しており、トーラーがギリシャ語に翻訳されたのも彼らの為だったと推測されている。おそらく紀元前3世紀後半におけるエジプトのユダヤ人人口はパレスチナのそれを凌駕していた。

紀元前3世紀初頭よりエジプトはプトレマイオス朝の支配を受ける。それはマケドニアギリシア人の王朝で、アレクサンダー大王の武将で、エジプトのサトラップ(総督)だったプトレマイオスが創設した。プトレマイオス朝パレスティナを支配し、紀元前587年の亡命者達の子孫のエジプトへの移住を奨励した。その結果、王都アレクサンドリアディアスポラ(バビロン捕囚後、パレスティナから離散したユダヤ人たちの住んだ土地)の最も重要な中心地の一つになり、15~20万人ユダヤ人がいたと言われている。

紀元前2世紀中旬にはデルタのテル・エル・ヤフディエにもユダヤ人共同体が設立され、神殿が建設された。ユダヤ人兵士達はファイユームのいくつかの村に土地を与えられた。またユダヤ人たちは上エジプトのあちこちに定住した。共同体にはシナゴーグ(礼拝場所)があり、プトレマイオス朝の保護を受けていた。そのことはシナゴーグギリシア語の奉献碑文に王、王妃、その子供たちの名前が現れることから分かる。ユダヤ人たちは宗教的アイデンティティーを維持したけれども、ギリシア語を話し、ギリシア名を採用した。エジプトのユダヤ人たちは主に兵士として、また官僚、警察官、職工、農夫として、エジプト社会によく組み込まれていた。

 ロゼッタストーンが語る当時のエジプトにおける言語状況

遊学舎 / 吉村作治 エジプト博物館「サイスと対岸のタニス」

ロゼッタというのは、デルタ地帯の遺跡の中でもピカイチでありまして、大変有名なところです。ロゼッタストーンは何がすごいかと言いますと、ロゼッタストーンなくして現在のエジプト学はありえない。文字が読めたもとになったということです。もともとプトレマイオス王朝が入ってきたとき、今から2320年ぐらい前ですかね、ギリシャの人たちは当時のエジプト語を認めていた。エジプトはギリシャの王朝だったのですが、公文書などはエジプト語で書かれていたんです。しかし、エジプトはヒエログリフ象形文字でしたから、書くのに時間がかかるんですね。一方、ギリシャ文字表音文字ですからすっすっすとかける。何とかエジプト文字もすっすと書けるようにしたいというわけで、ディモティクというのが出てきたのですが、これも書きにくい。そこで段々しゃべっているエジプト語ギリシャ文字で表記し始めるようになっていったのです。これがコプト語なんていうのですが、こうして文字の混乱があって、ヒエログリフは使われなくなってしまった。しかし、プトレマイオス王朝は偉くて、公用語として古代エジプトヒエログリフ古代ギリシャ文字(今の文字とほぼ同じです)を両立させていました。そしてプトレマイオス王が即位したことを皆に知らせるお触れを玄武岩に彫って各地に送ったんですね。しかし、簡単に読めないとまずいわけです。ギリシャ人の総督やそこにいる県知事などが読めないと困るというわけで両方の文字で書いてしかもその真ん中に、ヒエログリフギリシャ文字は読めないけど、ディモティク…くずし文字なら読めるという、3種類の人のために作られたのです」

七十人訳聖書」の登場とローマ属州時代の不遇 

このように、旧約聖書の周辺ではユダヤ・ヘレニズム文学が発展させられ、キリスト教聖書正典に組み込まれたものもあれば、聖書外典・偽典にとどまったものもあった。他方、紀元前2世紀ユダヤ人とギリシア人との間に諍いが現れた。フラウィウス・ヨセフスが反ユダヤの中傷に応えて著した『アピオン反駁』によれば、ギリシア語で『エジプト史』を著したエジプト人の歴史家マネトーンは、ユダヤ人はファラオがエジプトから駆逐したつまはじき者たちの子孫であると主張した、という。

しかしプトレマイオス朝の保護を受けてこれまで順調だったユダヤ人たちの状況は、ローマがエジプトを征服するやいなや、一転して悪化した。ギリシア人たちにはローマ市民権が与えられたのに対し、ユダヤ人たちにはローマ市民権が与えられず、人頭税や労役を課せられたのである。ユダヤ戦争(紀元後66~70年)でエルサレムの神殿が破壊されたのに伴って、紀元前2世紀に建設されたテル・エル・ヤフディエの神殿も閉鎖された。さらに、ウェスパシアヌス帝によってローマ帝国内の全ユダヤ人に賦課金が課せられた。ユダヤ人たちのローマ帝国に対する憎悪が高まった。

  • 紀元後115年トラヤヌス帝の時代にリビアのキレネでユダヤ人の反乱が起こり、エジプト、キプロスメソポタミアにまで広がり、民族主義的・救世主信仰的性質を帯びた。アレクサンドリアでは騒乱はすぐに鎮められたが、エジプトの農村部で激しくなり、最初はギリシア人とユダヤ人の単純な争いだったものが、エジプトにいるローマ軍を巻き込んだ本当の戦争になった。戦争は二年間続き、エジプトのユダヤ人共同体はほとんど全滅させられた。そのため、紀元後117年~270年の間エジプトにユダヤ人はほとんどいなかった。キリスト教がエジプトに普及したのはこの期間に当たる。

再びエジプトにユダヤ人たちが現れたのは、紀元後270~272年パルミラによるエジプト支配の時だった。彼らはヘブライ語を話し、聖書に由来した名前を持ったが、紀元後391年にテオドシウス帝がキリスト教ローマ帝国の国教と定めたため、新しい問題が起こった。紀元後415年アレクサンドリアの司教キュリロスキリスト教徒達にユダヤ人をアレクサンドリアから追い出すように命令し、シナゴーグユダヤ人居住区は破壊された。それでも紀元後642年イスラームによるエジプト征服まで4万人のユダヤ人がアレクサンドリアで繁栄したとされている。

しかし紀元前198年になるとセレウコス朝シリア(主にイラン東部、メソポタミア、シリアを統治)のアンティオコス三世がプトレオマイオス朝をアジアから駆逐してしまうのです。

 とりあえず、以下続報…