「諸概念の迷宮(Things got frantic)」用語集

本編で頻繁に使うロジックと関連用語のまとめ。

【「諸概念の迷宮」用語集】覇権国家時代のオランダ(17世紀)

 

 

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17 世紀は国家が台頭した時代だったから、国家が必要とする二種類の階級の出現がその特徴だ。国を運営する官僚と、そのお金を出す商人だ。重商主義は、こうした実務家たちの小冊子や研究や協定がたくさんあわさることで発達した。

イギリスオランダでは、経済著作の大部分は台頭するブルジョワコミュニティ出身の商人 (merchants) たちが書いた――だから重商主義 (Mercantilism)ということばがでてきた。

フランスドイツではブルジョワ階級が小さかったので、経済議論はもっぱら国の役人が書いた――だからフランスの重商主義はむしろ「コルベール主義 (Colbertisme)」 (フランスの財務相ジャン・バプティスト・コルベールにちなんだ名前)で知られ、ドイツの重商主義は「官房学派 (Cameralism)」(王立chamber を指すドイツ語にちなむ)として知られる。

イギリス・オランダとフランス・ドイツの重商主義の背景はこんな風にちがっているけれど、その経済ドクトリンはどれも大差ない。どっちも商人たちの富と国の力との親密で共生的な関係を認識していた。商売が繁盛すれば歳入が増え、国の力も増す。国の力が増せば、利益の高い交易ルートを確保できて、商人たちの望む独占を与えられる。
*近代日本における「産業報国運動」を連想させる。そしてかかる総力戦的体制は戦後高度成長期の間も維持されたのである。

世界システム論講義-──ヨーロッパと近代世界-ちくま学芸文庫-川北稔

まず大成功を収めたのはオランダであっ た。16世紀に成立し、今日、地球全体を覆っている近代世界システムの歴史上、その中核地域のなかでも、圧倒的 に強力となって他の 諸国を睥睨するようになった国を、「ヘゲモニー国家」と呼ぶ。その 国の生産物が、他の中核諸国においても、十分な競争力をもつほどに なった国家のことである。近代世界システムの全史において、ヘゲモニー国家は三つしか存在しなかっ たと考えられる。 

 

 

時代は、世界システム全体にとっては「危機」の時代であった が、そのなかで、独立直後のオランダが、圧倒的な経済力を確立し たのである。

ヘゲモニー は、まず第一次産業の生産活動から始まる。17世紀のオランダは、もっぱら商業国というイメージが強いが、その実態は農業 の「黄金時代」であり、またヨーロッパ最大の漁業国でもあった。オランダは、たしかに食糧を自給することはなく、東 ヨーロッパ やイギリスからの大量の穀物輸入に頼っていたが、他方では、干拓がすすみ、付加価値の高い近郊型農業─ ─染料をはじめとする工業用原料 や野菜、花卉などの栽培に集中する─ ─を発展させたのである。北海のニシン漁を中心とする漁業は、あまりにも強力で、イギリス漁業 はまったく太刀打ちできなかった。


戦後の日本の歴史学においては、オランダの歴史は、イギリスのそれとの対比で「近代化の失敗例」とみなされ、その失敗の原因を求める 研究が中心であった。中継貿易を中心 にした経済の仕組みがその弱点であった、といわれたものである。しかし、現実のオランダは、世界で最初のヘゲモニー国家として、イギリスにも、フランスにも、スペインにも、とうてい対抗しようのないほどの経済力を誇ったのである。

17世紀中頃のヨーロッパ では、工業生産でもオランダが圧倒的に 優越していた。その中心は、ライデン周辺の毛織物工業とアムステルダムに近いハーレムなどの造船業、マース河口の 蒸留酒 産業 などで あっ た。

 

生産面での他国に対する優越は、世界商業の支配権につながった。ポルトガル領のブラジルでも東アジアでも、オランダ人の姿が みられるようになった。政治的な支配がどのようになっていようと、 オランダ人は世界中いたるところにその存在を示すことになっ たのである。こうした世界商業の覇権は、たちまち世界の金融業における 圧倒的優位をオランダにもたらし、アムステルダムは世界の金融市場 となった。オランダの通貨が世界通貨となったのである。のちのイギリスやアメリカの例でもわかるように、世界システムヘゲモニー は、順次、生産から商業、さらに金融の側面に及び、それが崩壊する ときも、この順に崩壊する。たとえば19世紀末のイギリスでも、生産面ではドイツやアメリカに抜かれ たにもかかわら ず、ロンドンの シティが世界金融の中心としてとどまっていたし、ヘゲモニーを喪失 した現在のアメリカにしても、なお世界の基軸通貨はドルであるのと 同じで ある。

 

とすれば、オランダのヘゲモニーは、どのようにして成立したのか。一言でいえば、そこにみられるのは螺旋形の相乗効果である。 たとえば、圧倒的に優秀な造船業を確立したことから、オランダは 漁業と商業で圧倒的に有利になった。ニシン漁に使わ れたハリングバイスと呼ばれる、船上で塩漬けの加工ができる特殊船はイギリス漁業関係者の垂涎のまとであった。しかし、それ以上に効果があっ たのが、オランダがバルト海貿易用に開発したフライト船である。この型の船は、小人数で大量の積み荷を安価に運ぶことができたため に、バルト海貿易において価格の割に重かったり体積の大きい木材などを扱う「かさばる 貿易」の経済効率を圧倒的に よくした。その結果、エアーソン海峡関税帳簿でみるかぎり、バルト海貿易では、オランダはライヴァルで あるイギリスの10倍もの船舶を動かすことができたのである。オランダの海運運賃は、イギリスの半額程度であっ たといわれている。

しかも、このバルト海貿易こそは、近代世界システムの中核となっ た西ヨーロッパと、その「周辺」つまり従属地域となった東ヨーロッパを結ぶ幹線貿易であったわけで、世界システムそのものの生命線 であった。東ヨーロッパ は、西ヨーロッパに穀物を供給し、また重要な造船資材─ ─マスト材をはじめとする木材、ピッチ、タール、帆布 など─ ─のほとんどを供給した。したがって、オランダは、造船業が発達し、優れた船をつくることができたので、バルト海貿易 で圧勝したのだが、バルト海貿易をにぎったから造船業で優位に立つ こともできたのである。木造家屋が多く、戦争にも、貿易にも木造船 が使われた時代であってみれば、木材を含む造船資材はのちの鉄にも 匹敵する戦略物資であったのだ。この時代にアムステルダムで取引 された商品の四分の三は「 母なる貿易」と呼ばれたバルト海貿易関係のものであったといわれる。

こうした優位は、世界商業にも反映され、16世紀末に成立した多数 の東インド会社を統合して、1602年につくられた連合東インド会社 は、イギリスのライヴァル会社をものともしなかった。資本金もケタ が違っていたが、何よりも、17世紀中頃までのイギリス東インド会社は、継続性の薄い、一時的な性格の強い会社でしかなかったからである。

オランダ の、というよりアムステルダムの商業上の優越は、レヘントと呼ばれた有力ブルジョワ、つまり商人貴族の階層を生み出し、金融面での優越につながった。こうして、アムステルダムこそは、世界中の資金が 集まる場所となり、金利のもっとも低い金融市場となっ た。個々の商人はもとより、ヨーロッパ各国の政府がこの市場で資金 を借りようとしたのは当然である。とすれ ば、この金融市場をいつ でも利用できたオランダ人が、造船業や世界的な商業活動でも、植民地の鉱山やプランテーションの開発─ ─ポルトガル領ブラジルでの 砂糖プランテーションのように─ ─においても、資金面で他国の同業者よりはるかに有利な立場に立つことになったことはいうまでも ない。

さらに、こんなこともある。世界商業と金融の中心となったアムステルダムは、必然的に情報センターともなった。安価な資金と十分 な情報からして、海上保険の掛け金率も、アムステルダムで圧倒的に低くなり、外国船でさえ、ここで保険を掛けるようになった。逆 にいえば、金融・保険業などの「みえ ざる 収益」の点でも、オランダは圧倒的な 力をもつようになった のである。

とはいえ、ヘゲモニーの状態は長くは続かない。オランダ、イギリス、アメリカ合衆国の場合は、いずれ も真の意味のヘゲモニーは、半世紀とは続かなかった。ひとつの要因は、ヘゲモニー 国家では生活水準が上昇し、賃金が上がるため、生産面での競争力が低下する ことにあろ う。

オランダにかぎらず、ヘゲモニーを確立した国 は、イデオロギー的 にも、特徴的な傾向を示す。すなわち、圧倒的な経済 力を誇るヘゲモニー国家は、必然的に自由貿易を主張するのである。この時代の オランダでは、有名な国際法学者グロティウスが「 海洋自由」論を 唱えたことは、よく知ら れていよう。圧倒的に強い経済力を誇る国 にとっては、自由貿易こそが、他の諸国を圧倒できるもっとも安上がりな方法なのである。同じことは、19世紀の「ヘゲモニー国家」イギリスにも、20世紀のアメリカについてもいえる。アメリカが自由貿易、より広くは自由主義の使者であったのは、そのヘゲモニーが 確固としているあいだだけであっ たことは、ごく近年のこの国の政策をみれば 明白で ある。

それにしても、自由主義を標榜するヘゲモニー国家の首都中心都市)は、実際に、世界中でもっともリベラルな場所となる。したがって、そこには、故国を追われた政治的亡命者や芸術家が蝟集すること にもなる。こうしてアムステルダムが、のちのロンドンやニューヨークと同じように、亡命インテリの活動の場となり、画家をはじめ、芸術家の集まる町となっ たのも当然である。