騎士修道会(Knight Order/Military order) - Wikipedia
十字軍時代(11世紀~13世紀、イベリア半島におけるレコンキスタ完遂(1492年)を視野に入れるなら11世紀~15世紀となる)は騎士修道会の時代でもある。
聖地エルサレムの防衛とキリスト教巡礼者の保護・支援を目的として創設された中世のローマ・カトリックの修道会の事で、一般に「○○騎士団」と呼ばれることから誤解を受けやすいが、あくまで修道会の一形態であり、その成員の公的身分は修道誓願を立てた修道士であって騎士ではない。
騎士であり修道士である会員、キリスト教の教会を守護するための戦士と清貧を旨とする宗教的に優れた人格をともに実現することを目標とし、後にはイベリア半島や東欧でも異教徒との戦いに従事した。
この様に(12世紀から13世紀にかけて地中海沿岸部で展開した十字軍運動によって政治と経済が活性化する一方、反動でフランチェスコ修道会やドミニコ修道会が設立され黒死病が流行した14世紀に一旦停滞期を迎える前期、15世紀以降その状態からの脱却を志向して主権国家化が本格化する後期に大別される)西欧のゴシック時代(12世紀~16世紀)にイベリア半島のレコンキスタ運動(11世紀~15世紀)や東欧の大開拓時代(12世紀~15世紀)を軍事的に支えた騎士道修道会の概念上の起源は(ノルマン人貴族とアストゥリアス王国の西ゴート王国遺臣達とロンバルティアのランゴバルト貴族とブルゴーニュのブルグント貴族の緩やかな部族連合からクリューニュー修道会やシトー修道会が現れた)ロマネスク時代(10世紀~13世紀)や、それを準備した欧州前ロマネスク時代(西ローマ帝国が滅亡した4世紀とフランク王国が事実上滅亡した9世紀の端境期)の最古層まで遡るのです。
- キリスト教は当初から殉教者を出し続けるが、その当時から既に墓所に詣でて敬意を表する信者の姿があった。これをマルティリウム(martyrium)といい、礼拝場たる教会と並んでキリスト教コミュニティの重要な中心となっていた。
- 4世紀にキリスト教が公認されると、キリスト教発祥の地であるパレスチナ、ことにキリストの生地であるベツレヘムや受難の地であるエルサレムの遺構に参拝する信者が旅行するようになり、各地の殉教者記念堂も巡礼の対象となった。
- ちなみにカトリックの三大巡礼地は、エルサレム(=キリスト受難の地)、ローマ(=ペトロ受難の地)、そしてサンティアゴ・デ・コンポステーラとされる。
サンティアゴ・デ・コンポステーラ(Santiago de Compostela) - Wikipedia
- ガリシア地方は5世紀から6世紀にかけては、スエビ王国(ガリシア王国)の中心地であったが、584年に西ゴート王レオヴィギルドによって征服されている。この時代にガリシア北部ブリトニア(Britonia)にブリトン人移民による司教座ができた。アングロ=サクソン人のグレートブリテン島侵攻を逃れてきた人々とされる。
- 8世紀に一旦イスラム教徒の支配下に入ったが、実効支配の及ばないまま739年にアストゥリアス王国のアルフォンソ1世(ガリシア語ではアフォンソ1世、Afonso I)が奪還に成功した。以降レオン王国の一部となり、カスティーリャ王国へと継承されていく。
- 9世紀のサンティアゴ・デ・コンポステーラでサンティアゴの聖遺物が発見されサンティアゴ信仰が盛んとなりレコンキスタ運動(11世紀~15世紀)の象徴となった。それ以降、巡礼路を巡ってヨーロッパ中からキリスト教徒が巡礼するようになる。
- 9世紀から10世紀にかけては沿岸部がヴァイキング(北欧系諸族の略奪遠征)やノルマン人(ノルマンディー地方に定住して北フランス諸侯に加わった北欧系諸族)の標的とされたが人々の往来は続きロマネスク美術や吟遊詩人の詩や音楽のの伝播といった文化交流をもたらした。
*まさしくノルマン人貴族とアストゥリアス王国の西ゴート王国遺臣達とロンバルティアのランゴバルト貴族とブルゴーニュのブルグント貴族の緩やかな部族連合からクリューニュー修道会やシトー修道会が現れたロマネスク時代(10世紀~13世紀)の発祥起源となった訳である。
*こうした流れがイベリア半島のトレドやシチリア島のパレルモを拠点とするビザンツ文化やイスラーム文化流入、すなわち12世紀ルネサンスへと繋がっていく。
- アルフォンソ10世がカスティーリャ語を国語と定め、宮廷や政治の場で使用させた13世紀においてなおガリシア語は文学世界の標準語として君臨し続けたが、カスティーリャ優位の中央集権体制が進むにつれ徐々に衰退していく。おおまかに16世紀から18世紀中旬までの時期はセクロス・エスクーロス(Séculos Escuros、暗黒時代)と呼ばれ、書き言葉としてのガリシア語が使われる伝統の途絶していく時期に該当する。
*イタリア・ルネサンス期の国語運動に影響を与えたのはむしろアルビジョワ十字軍(1209年~1229年)を避けてシチリア王国首都のパレルモ宮廷などに逃げ込んだオック語詩人達だったとも。
その一方で地中海沿岸からヨーロッパ各地にかけて諸聖人の遺骨(聖遺物または不朽体)または十字架、ノアの箱舟の跡などの遺物を祭ったとされる教会、聖堂を巡礼する伝統自体は決して衰える事なく、ヴェネツィア共和国の栄華を支えたり、ルターの宗教革命の庇護者としても聖遺物の収集家としても名高いザクセン選帝侯フリードリヒ(在位1486年〜1525年)の様な人物を輩出したりもしている。
- 古代後期から殉教者の遺骨によって奇跡がおき、参拝した巡礼者に病気が治癒したり歩けなかった足が動くようになったなどの事例が報告されるようになり、ピレネー山中のルルドやサンティアゴ・デ・コンポステーラなどに巡礼者を集めてきた(『カンタベリー物語』など)。
*イタリア・ルネサンス最初期の成果の一つとされるジョヴァンニ・ボッカッチョの物語集「デカメロン(Decameron, 1348年~1353年)」の影響を色濃く受けてイングランド詩人ジェフリー・チョーサーが執筆した「カンタベリー物語(The Canterbury Tales, 14世紀)」。どちらも多様で多態な巡礼客がそれぞれの物語を語る「枠物語」の形式を採用している。日本の「〇〇参り」もそうだが、巡礼にはそれぞれの参加者が見聞範囲を大幅に広げる貴重な機会という側面もあったのである。
- もっとも有名なのはエレナが発見したとされる十字架の遺物、アルメニア王アブガルス3世に贈られエデッサ(Edessa)からコンスタンティノポリスにもたらされたマンドリオン(手で描かれたのではない聖像)、コンスタンティノポリスの聖母マリアの衣、洗礼者ヨハネの首などである(宝物は中世後期に散逸)。西方でも中世中期からミラノのキリストの聖骸布、聖杯(聖杯伝説や騎士道物語を生み出す元になった)などの伝承が生まれた。巡礼者を惹きつけるために他の教会から聖遺物を盗んできたり、偽造するということもあった。
ところでキリスト教における巡礼は聖地への礼拝だけでなく、巡礼旅の過程も重視する。すなわち聖地への旅の過程において、人々は神との繋がりを再認識し信仰を強化するのである。サンティアゴ・デ・コンポステーラへの巡礼の物語を「時間と空間を越える神の存在への問いかけの物語」にしたフランス映画に「銀河(La voie lactée, 1969年)」がある。またライ麦につく麦角菌に起因する麦角病(四肢が壊疽したり、精神錯乱を招く)は「巡礼に赴くことで癒える」とされた。
- 巡礼者はホタテの貝殻をリュックなどにぶら下げて目印としていた。そうした人々の中で病に倒れた人、宿を求める人を宿泊させた巡礼教会のうち小さなものを「hospice(ホスピス)」と呼んだが、そこでのもてなしから「hospitality(ホスピタリティ=歓待)」の語がうまれ、病人の看護などの仕事をする部門が教会の中に作られるようになって今日の英語でいう「hospital(病院)」が派生する。ゆえに「hospital」は「病院」だけでなく「老人ホーム」「孤児院」の意味も持つ。またhospiceは、現代では終末期の患者が残りの時を過ごす近代的な「ホスピス」の語源ともなっている。
十字軍運動(12世紀~13世紀)による政治と経済の活性化の反動として各都市の参事会内に財産共有運動が起り、ドミニコ修道会(Ordo Fratrum Praedicatorum, 1209年〜)やフランチェスコ修道会(Ordo Fratrum Minorum, 1209年〜)が設立された背景にも当時都市部ブルジョワ階層の間に流行した「使徒行伝」の世界への回帰運動がありました。西洋人の心理と生活環境は、こうして清貧と豪奢の狭間を揺れ動いて来たのです。