そう「領主が領土と領民を全人格的に代表する農本主義的権威体制」の拘束力が強い国では、英米やスイスやオランダの様には産業革命の自然導入が望めなかったのです。
その意味合いにおいて開発独裁(developmental dictatorship / developmental autocrat)概念との地続き性を見て取る向きも。
発明国フランスばかりか、以下の国々もそれぞれ自力産業革命導入に当たって政治的経済的イデオロギー参照している。
- ドイツ帝国(Deutsches Kaiserreich, 1871年~1918年)…ユンカー階層出身のビスマルク宰相の主導下「領主が領土と領民を全人格的に代表する農本主義的権威体制」の残滓が解体され「法実証主義的世界観に基づいて十分な火力と機動力を有する常備軍を中央集権的官僚体制による徴税で養う」主権国家への移行に指針を与えた。ちなみに多くの開発独裁体制が国民福祉の充実を後回しにする中、ビスマルク宰相は「社会民主主義の父」フェルディナント・ラッサール(Ferdinand Johann Gottlieb Lassalle、1825年〜1864年 )と面談し、その弟子達の進言に従って(労働組合運動は弾圧しつつ)失業手当などの労働者福祉充実を図っている。
- 大日本帝国(1868年~1945年)…「版籍奉還(1969年)」「廃藩置県と藩債処分(1871年)」「秩禄処分(1876年)」といった一連の政策により江戸幕藩体制を跡形もなく解体してフランス郡県制を模倣した中央集権体制へと移行。(幕末期フランスとの関係が深かった)旧幕臣層の影響を強く受けての急展開だったが、実は伊藤博文(1841年~1909年)もドイツに留学し「(マルクスがサン=シモン主義を学んだ教科書)今日のフランスにおける社会主義と共産主義(Der Socialismus und Communismus des heutigen Frankreiches, 1842年)」の著者ローレンツ・フォン・シュタイン(Lorenz von Stein、1815年~1890年)に直接師事している。いずれにせよ(部族連合を解体し、朝廷を頂点に抱く中央集権国家へと移行する為の処方箋集ともいうべき)律令制導入に次ぐ1000年ぶり2回目の海外製ソリューション・パッケージ導入であった。この「黒船頼り」っ振りこそが日本人が正面から向き合うべき「日本的現実」とも。
- ベルギー王国(1830年~)…ワロン人が自力産業革命導入の為にはオランダ王国からの独立が必須と考え独立。当時からフラマン人と紐帯がネックで、両者を統合する政治的イデオロギーを必要としていた。
ちなみにフランス復古王政期(1815年~1830年)から7月王政期(1830年~1848年)にかけてのサン=シモン主義は「不労所得階層に対する産業階層の優位」を理想に掲げつつも「裁定者としての職務を全うする国王の君臨なら歓迎する」という部分が気に入られて流行していたに過ぎず、経済改善能力までは備えていなかった。それで7月王政期には大貴族がブルジョワ階層に改編される一方、中小貴族が次々と庶民落ちしていった訳だが、産業革命導入なら自力で成し遂げる力のあったベルギーにとっては「裁定者としての職務を全うする国王の君臨なら歓迎する」という部分だけで十分だったのである。
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アメリカ合衆国…南北戦争(American Civil War, 1861年~1865年)において北軍が南軍に勝利し「統一国家」となったばかりだったのでで新たな中央集権体制を模索していた。大日本帝国同様、フランス第二帝政だけでなくドイツ帝国の政体も参考にしたが、最終的に資本家階層の間に広まったのは誤った理解に基づくスペンサーの社会進化論だったという。
- ブラジル合衆国(1889年~1930年)…ポルトガルより立憲君主国として独立したブラジル帝国(1822年~1889年)の次の政体として成立。実は当時の南米では、サン=シモン主義そのものではなく(その王政や帝政を容認する姿勢を嫌って)袂を分かった元弟子オーギュスト・コント(Isidore Auguste Marie François Xavier Comte、1798年~1857年)の、それも宗教色を強め教会活動を行う様になった後期思想が流行しており、それで国旗にも彼の標語「ORDEM E PROGRESSO(秩序と進歩)」が入る事になったのだった。その一方で産業は伝統に従って重農主義のまま発展せず、奴隷解放によって砂糖農園経営が困難になると外国人出稼ぎ労働者に頼ったコーヒー園経営が国家を支える様になる。
そう、彼はそう叫びつつロンドンに亡命する事で未だ「領主が領民と領土を全人格的に代表する農本主義的権威体制」の精神的拘束下にあるドイツの現実のプロテスタントから逃げ、自らの経済策も(ドイツに初めて社会主義を紹介したフォン・シュタイン「今日のフランスにおける社会主義と共産主義(1842年)」に偶々掲載されていた)サン=シモン主義を下敷きにしつつ、その一方で(まさしく、そのサン=シモン主義に立脚して)フランスへの産業革命導入を成功させた皇帝ナポレオン三世の実績を全面否定しつつ「俺ならもっと上手くやれる」なる完璧なまでに空想科学的立場から自らの階級闘争史観を構築して後世に残したのである。
ファシズムを悪であり批判すべき犯罪的なものとすれば、その責任の一端はマルクスにある。マルクスがヘーゲル左派を否定し、ドイツからいわばトンずらしたことがそれだ。なぜならマルクスがドイツには思想の現実がないと考えてふけたとしても、何であれ現実のドイツはそこにあるからだ。
— 千坂恭二 (@Chisaka_Kyoji) 2020年1月31日
初期マルクスにおける同時代的な思想や運動としてヘーゲル左派のB・バウアーや義人同盟のW・ヴァイトリングがあるが、マルクスはそれを乗り越えたとされたが、そうではなく、それらはマルクスに対する現実として残った。それにスラブ派的な要素を加えてマルクスに対して存在したのがバクーニンだ。
— 千坂恭二 (@Chisaka_Kyoji) 2019年9月28日
バウアーやヴァイトリングらの問題は、マルクスから独立し、マルクスに対するドイツの現実として残ったのであり、それは後期のバウアーからワーグナー、ニーチェを経てヴェーバーさらにはハイデガーやユンガーへと続き、それが、その後のドイツの現実となる。
— 千坂恭二 (@Chisaka_Kyoji) 2019年9月28日
左翼とされるヘーゲル左派と、右翼とされる戦間期の保守革命は、このようなマルクスが手放したドイツの現実として結びつく。マルクスの最大の弱点はここであり、マルクスには現在の解析はあるが現在の変革がない。
— 千坂恭二 (@Chisaka_Kyoji) 2019年9月28日
その点、ボルシェビキを率いてロシア革命(1917年)を途中から乗っ取った「梟雄」ウラジーミル・レーニン(Влади́мир Ильи́ч Ле́нин、1870年~1924年)にこういう甘さはない。彼はソビエト連邦の経済政策については黙って迷う事なく当時世界最先端だった米国人技術者フレデリック・テイラー(Frederick Winslow Taylor, 1856年~1915年)の「科学的管理法(Scientific management, 1911年)」を採用し(少なくとも最初は)相応の成功を収めている。一事が万事これで「縁日のタコ焼きにはタコが入ってない(テキ屋は匂いだけつけて本物を入れない事でより稼ぎを大きくする。お客も縁日の雰囲気を味わいたくて買ってるだけだから煩い事は言ってこない)」なる論法を終始貫く展開に…
フランス革命の到達地点が「権力に到達したブルジョワジー(bougeoisie au pouvoir)」あるいは「二百家」と呼ばれるインテリ=ブルジョワ=政治的エリート層による寡占体制だった様に、ロシア革命の到達地点もまた「赤い貴族(ダーチャ族)」ノーメンクラトゥーラ(номенклату́ра)の寡占体制となったのは決っして偶然の結果ではないのでしょう。全ては初期条件が厳し過ぎたせいで、それにしては良くやった方とも。
さらなる歴史上の最大の皮肉、それは資本主義国家として相応の成功を収めつつ現存する「鄧小平時代(1977年~1997年)以降の中国」や「ドイモイ政策(Đổi mới / 𣌒𡤓, 1986年)採用後のベトナム」が「マルクス原理主義を放棄してサン=シモン主義に回帰した」結果そうなった様にしか見えない辺り。そう、結局最終的に勝ったのは「結局フランス革命は破壊に終始しただけだった。次世代の我々は創造に着手する」と豪語した「シャルルマーニュ大帝の末裔」サン=シモン伯爵(Claude Henri de Rouvroy、Comte de Saint-Simon, 1760年~1825年)だったのかもしれないのである…