「諸概念の迷宮(Things got frantic)」用語集

本編で頻繁に使うロジックと関連用語のまとめ。

【高校数学】後発だった欧州における「数理モデル黎明期」

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ルートポート(Rootport)「会計が動かす世界の歴史 なぜ「文字」より先に「簿記」が生まれたのか」より。文字より先に生まれた簿記

紀元前4千年までさかのぼる。最初の簿記はメソポタミア文明の「駒」だという。トークンと呼ばれる、粘土製のおはじきのようなもので、穀物や家畜を表していた。トークンは現実の羊やパンと1対1で対応し、税の取り立てや財産管理に使われていたという。

紀元前3千年にイノベーションが起き、トークンそのものではなく、粘土板にトークンを押し付け、型を記録するようになる。現実と同数同種類のトークンを用意する必要がなく、トークンを現実の数だけ押し付け、粘土板を管理すればいいようになる(簿記の原型)。そして型押しが簡略化され、粘土板に溝を彫るようになったのが文字の誕生になる。

 世界最古の複式簿記の教科書「スムマ」について。

世界最古の複式簿記の教科書は、1494年にイタリアのヴェネチアで出版されました。関ヶ原の合戦よりも1世紀以上も昔、コロンブスが新大陸に到達した2年後です。タイトルは『算術、幾何、比および比例全書』、長いので『スムマ』という略称で知られています。この教科書を著したルカ・パチョーリは、「近代会計の父」と呼ばれています。

  • スムマ(Summa)は、全体、総体、集大成という意味。原題である『SummadeArithmetica,Geometria,ProportionietProportionalita』の最初の単語。

ここで『スムマ』が出版された時代背景を確認しておきましょう。1450年代にドイツのヨハネス・グーテンベルク活版印刷機を実用化し、書物の価格が急激に下がりました。それまでの書籍は、1冊ずつ人の手で書き写すため、お金持ちだけが入手できる超貴重品でした。ところが機械で大量に印刷できるようになり、たくさんの人が本を手に入れて、新しい知識に触れられるようになったのです。1500年ごろになると、本1冊の値段は教師や熟練の職人の給与の1週間分程度になっていました。現在でいうデスクトップパソコン1台分くらいの価格水準だったのでしょう。

また、この時代を理解するうえで1453年の「コンスタンティノープル陥落」は外せません。コンスタンティノープル東ローマ帝国の最後の都市であり、現在はトルコのイスタンブールという名前で知られています。この年、コンスタンティノープルオスマン帝国によって攻め滅ぼされました。紀元前から続くローマ帝国の歴史は、ここでようやく幕を閉じます。この時、コンスタンティノープル古代ギリシャやローマの知識を守っていた知識人が、ヨーロッパに難民として流入しました。ヨーロッパの人々は、自分たちの祖先が持っていた高度な知識や哲学に触れ、再度それを取り戻そうとしました。こうしてヨーロッパの暗黒時代は終わり、ルネサンスの時代が花開いたのです。

当時の人々の算術能力についても説明しておきましょう。ヨーロッパでは古くからローマ数字が使われていました。たとえば「893」は、ローマ数字では「DCCCXCⅢ」となります。複雑な商取引を記帳するのに、ローマ数字は大変不便でした。ルカ・パチョーリが『スムマ』を著した15世紀末は、ちょうどイタリアでインド゠アラビア数字が広まっていた時期と重なります。当時の一般人は足し算、引き算をするだけでもひと苦労で、掛け算はかなり難しいこととされており、割り算にいたっては専門家が行うものだと考えられていました。ローマ数字では今の私たちのような「筆算」ができないのですから当然でしょう。そんな時代に書かれた『スムマ』は、簿記だけでなく、数字を使った算術や幾何学全般を解説する本でした。縦30センチメートル、横2センチメートルのかなり大判な本で、全615ページにわたってびっしりと文字が印刷されていました。現代の一般的な書籍に置き換えれば1500ページにはなるであろう超大作です。このうち、複式簿記を解説しているのは『計算および記録に関する諸説』というわずか27ページの章です。文字数にすれば2万4000字で、「ヴェネチア式簿記」として複式簿記を紹介しています。ルカ・パチョーリは若いころにヴェネチアの商家で働いたことがあり、その時に簿記の技術も学んだのです。この2万4000字が世界を変えたと考えると、とてもロマンがあります。複式簿記は、誰か1人の天才が生み出したものではありません。長い時間をかけて、中東や地中海沿岸の商人たちが少しずつ発展させてきました。ルカ・パチョーリはその知識を『スムマ』の中の1章にまとめたのです。もしも『スムマ』にヴェネチア式簿記が掲載されていなければ、西洋に複式簿記が広まることもなく、資本主義や株式会社も生まれず、現代の世界はまったく別の姿になっていたかもしれません。歴史に「もしも」はありませんが、そうやって空想を広げるのは刺激的です。

イアン・スチュアート「世界を変えた17の方程式In Pursuit of the Unknown: 17 Equations That Changed the World)」の記述と付き合わせてみましょう。 

数は、家畜や土地などの資産の記録、および課税や貸し借りなどの金融取引といった、現実的な問題から生まれた。…知られているもっとも古い数の表記は、粘土の包みの外側に見つかっている。紀元前8000年頃、メソポタミアの会計係は、さまざまな形をした小さな粘土片を使って記録を付けていた。

考古学者のデニーズ・シュマント=ベスラーによれば、穀物には球形、油には卵形などと、形状の違いによってそれぞれ基本的な商品を区別していたという。それらの粘土片は、安全のために粘土の包みのなかに封入されたが、包みを割ってなかの粘土片を数えるのは面倒だったため、古代の会計係は、なかに何が入っているかを表す記号を外側に刻んだ。やがて彼らは、その記号を刻んでしまえば粘土片を捨ててもかまわないことに気づいた。

こうして、数を表す一連の記号が誕生し、その後のあらゆる数の記号や、おそらく文字の起源となった。数とともに、算術、つまり数を足したり引いたり掛けたり割ったりする方法も誕生した。そして、そろばんのような道具を使って計算をおこない、その結果を記号で記録するようになった。しばらくすると、道具の助けを借りずに記号を使って計算をおこなう方法が見つかったが、そろばんはいまでも世界の多くの地域で広く使われている。それ以外のほとんどの国では、電卓が紙とペンによる計算に取って代わっている。

数の概念とその表記の成立過程」についての記述はほぼ一致してるものの、こちらには「スムマSumma)」に関する記述が見当たりません。どうやら残りページを占めた「算術、幾何、比および比例」に関する記述には、別に同時代の類書を卓越する内容は含まれていなかった様なのです。

  • そう、あたかもアベ・プレヴォーの長編小説「ある貴族の回想と冒険Mémoires et Aventures d'un homme de qualité qui s'est retiré du monde)」全7巻のうち、最終巻たる「騎士デ・グリューとマノン・レスコーの物語Histoire du chevalier Des Grieux et de Manon Lescaut、1731年)」だけが選好され、後世に伝えられた様に。

    その一方で当時の時事ネタやゴシップを多分に含んで宮廷やサロンを席巻していた「鍵小説」が(その末席に名を連ねるポリドリ「吸血鬼(The Vampyre、1819年)」も含め)すっかり忘れ去られていった様に。

  • 歴史を振り返る上で、こうした「生存バイアス」は極めて重要。概ね(会計概念を中心とする数理モデル創始者といえばフェニキア人やアラム人といった商業民族の名前が挙がるが、彼らは「文字」しか後世に伝えなかった。「記録」を残したのはヘブライ民族とギリシャ民族で、こういう部分で差がついてくるのである。

  • そういえば複式簿記のさらなる起源がイスラム諸王朝やヴェネツィアに辿れそうという辺りも興味深い。(あたかも中華王朝が絹糸生産の秘密を隠し通そうとした様に)秘密主義の強い彼らもまた、この件について正式な記録は残さなかったのである。

ところで「会計が動かす世界の歴史」でも「世界を変えた17の方程式」でも故意にその名前を黙殺された人がいます。とはいえ上掲の文章の中でもそういう人物が存在した事は十分に仄めかされているのですが…
レオナルド・フィボナッチ(Leonardo Fibonacci、Leonardo Pisano 1170年頃〜1250年頃) - Wikipedia

中世で最も才能があったと評価されるイタリアの数学者である。 本名はレオナルド・ダ・ピサ(ピサのレオナルド)という。フィボナッチは「ボナッチの息子」を意味する愛称だが、19世紀の数学史家リブリが誤って作った名前でもある。

  • 13世紀初頭に、『算盤の書』の出版を通じてアラビア数字のシステムをヨーロッパに導入した。
  • 自身で発見したわけではないが、『算盤の書』の中で例として紹介したことで、「フィボナッチ数列」に名前を残した。

イタリアのピサで生まれた。父親のグリエルモ(Guglielmo)はイタリア語で「単純」という意味のBonaccioというニックネームを持っていた。母親のアレッサンドラ(Alessandra)はレオナルドが9歳の時に亡くなっていた。レオナルドは、「Bonaccioの息子filius Bonacci)」という意味のFibonacciという諡を贈られた。

グリエルモは貿易商人の職を求めてムワッヒド朝現・アルジェリア)のベジャイアに移住した。まだ少年だったレオナルドも父親を助けるために現地に赴き、そこでアラビア数字を学んだ。

アラビア数字の体系がローマ数字よりも単純でより効率的なことに気づき、当時のアラブの数学者の下で学ぶため、エジプト、シリア、ギリシア等を旅行した。1200年頃には帰国し、32歳になった1202年に、彼は自身の学んだことを「算盤の書Liber Abaci)」にまとめ、ヨーロッパで出版した。

科学と数学を好んだ神聖ローマ皇帝フリードリヒ2世に気に入られ、しばしば宮殿に呼ばれた。1240年にはピサ共和国から表彰され、給料が贈られるようになった。死去した年ははっきりとはわかっていないが、1240年から1250年ごろにかけて、ピサ市の近くにて亡くなったと考えられている。

算盤の書

1202年に出版された『算盤の書』の中で、フィボナッチは「インドの方法modus Indorum)」としてアラビア数字を紹介した。この中では0から9の数字と位取り記数法が使われている。この本の中では位取り記数法の利点を、格子乗算とエジプト式除算を使い、簿記、単位の変換、利子の計算などへの応用を例にとって説明している。この本はヨーロッパの知識層へ広く受け入れられ、ヨーロッパ人の考え方そのものに大きな影響を及ぼした。

この本の中ではまた「ウサギの出生率に関する数学的解法」などの諸問題に対する解答も記している。この解答で使用された数列が後にフィボナッチ数列として知られるようになる数列である。この数列は、インドの数学者の間では6世紀頃から知られていたが、西洋に初めて紹介したのはフィボナッチの書いた算盤の書である。

私自身は「数学的直感の起源はカンブリア爆発時代Cambrian Explosion、5億4200万年前〜5億3000万年前に視覚とそれを処理する脊髄ソフトウェアとしては「オイラーの原始量(Euler's primitive sweep)すなわち観測原点をスッポリ覆う全球型スクリーンを等して世界そのものに接する認識システムを獲得した左右相称動物Bilateria、カニやエビの様な節足動物の先祖筋の進化が、全身を統括する中枢神経を備えないが故に動作が鈍重な放射相称動物Radiata、ウニやクラゲやイソギンチャクの類を凌駕する様になった時代まで遡る」とし、その最初の成功事例たるアノマロカリスAnomalocaris、約5億2,500万- 約5億0,500万年)が生物史上初の「百獣の王食物連鎖の頂点)」として君臨し、その後一切の末裔を残す事なく滅んでいった先例こそがビジネスモデルの起源と考える「オイラーの原始量Euler's primitive sweep)」仮説の提唱によってこうした諸概念が統合可能なのではと考えています。

人が言い淀む箇所にこそ真理は潜む?

要約 

近代に入るまでヨーロッパは必ずしも数学史上の先進地域ではなかった。その時代の図形を扱う数学は定義や公理から出発して命題を論理的に順次演繹していくのを特徴とする。これが「総合幾何」である。
代数学(algebra) - Wikipedia

近代以前

プラトンの時代までに、古代ギリシアの数学は大きな変化を遂げた。ギリシア人は線で描いた幾何学図形のそれぞれの線に文字を添え、その文字を式の項として使用する幾何代数の考え方を生み出した。ディオファントス紀元3世紀)はアレクサンドリアの数学者で『算術』という著書の作者であり、時に「代数学の父」とも呼ばれる。その書は代数方程式の解法に関するものである。

algebra という語はアラビア語al-jabrアラビア文字表記:الجبر、"reunion of broken parts"(バラバラのものの再結合))に由来し、近代代数学はアラビア数学から発展したもので、その起源を遡ると古代インドの数学にたどり着く。

9世紀のバグダードの数学者アル=フワーリズミーが著作した 『イルム・アル・ジャブル・ワル・ムカバラ"Ilm al-jabr wa'l-muqabalah")(約分と消約との学=The science of reduction and cancellation)』(820年)を、チェスターのロバート(あるいはバースのアデラード) )が、"Liber algebrae et almucabala"としてラテン語に翻訳した。この書によってフワーリズミー代数学幾何学や算術から独立した一分野として確立した。これが後500年間にわたってヨーロッパの大学で教えられたという。

al-jabr は、アラビア語では「al亜: ال)」が定冠詞、「jabr亜: جبر)」が「バラバラのものを再結合する」「移項する」という意味であることから、インド数学のことである。それ以前にフワーリズミーはインドの数学から学んだことを『インドの数の計算法』として著し、イスラム世界に広めた。これは二次方程式、四則演算、十進法、0などの内容でラテン語に翻訳され、著者の名は「アルゴリズム」の語源であるといわれている。

代数学の起源は古代バビロニアとされており、古代バビロニア人はアルゴリズム的に計算する高度な算術的体系を生み出した。古代バビロニア人は、今日一次方程式や二次方程式不定一次方程式を使って解くような問題を計算するための公式を開発した。一方同時代(紀元前1千年紀)のエジプトやギリシアや中国では、そのような問題は幾何学的に解かれていた。例えば「リンド数学パピルス」、ユークリッドの『原論』、『九章算術』などである。『原論』に代表される古代ギリシアにおける幾何学では、個別の問題を解くだけでなくより一般化した解法の枠組みを提供していたが、それが代数学へと発展するには中世アラビア数学がヨーロッパに紹介されるのを待つ必要があった。

ヘレニズム期の数学者アレクサンドリアのヘロンとディオファントスやインドの数学者ブラーマグプタらはエジプトやバビロニアの伝統に則って数学を発展させ、ディオファントスの『算術』やブラーマグプタの『ブラーマ・スプタ・シッダーンタ』といった成果が生まれた。例えば、二次方程式の(ゼロや負の解を含む)完全な解法を初めて記したのがブラーマグプタの『ブラーマ・スプタ・シッダーンタ』である。その後、アラブ世界(イスラム世界)の数学者が代数学的手法をより高度なものへと洗練させていった。ディオファントスや古代バビロニア人は方程式を解くのに場当たり的な技法を使っていたが、アル=フワーリズミーは一般化された解法を初めて使用した。彼は、一次不定方程式、二次方程式、二次不定方程式、多変数の方程式などを解いた。


1545年、イタリアの数学者ジェロラモ・カルダーノは40章からなる『偉大なる術』を著し、世界で初めて四次方程式の解法を示した。

ギリシャ人数学者ディオファントスは昔から「代数学の父」と呼ばれてきたが、最近ではアル=フワーリズミーの方がその名にふさわしいという議論がある。ディオファントスを支持する側は、フワーリズミーの著作は『算術』よりも扱っている内容が初等的であり、フワーリズミーの著作が修辞的で冗長なのに対して『算術』は簡潔に記述してある点を指摘する。

一方フワーリズミーを支持する側は、彼が左右の辺の間での項の移動や打消しといった手法を導入した点(al-jabr の本来の意味とされている)、幾何学的証明を証拠としつつ二次方程式の解法を徹底的に解説し、代数学を独立した分野にまで高めたという点を指摘する。フワーリズミー代数学はもはや一連の問題と解法を示すのではなく、単純な式からそれらを組み合わせた複雑な式まで全ての可能性を網羅し、今後の真の研究対象が何であるかを示している。そして、無限に存在する問題のクラスを定義するためにのみ必要な一般化された形で方程式を研究した。

ペルシャの数学者ウマル・ハイヤームは代数幾何学創始者とされており、三次方程式の一般解を見出したことで知られる。同じくペルシャの数学者シャラフ・アッ=ディーン・アッ=トゥースィは様々な三次方程式の代数解や数値解を求めた。彼は関数の概念も生み出した。インドの数学者マハーヴィーラとバースカラ2世、ペルシャの数学者アル=カラジ、中国の数学者朱世傑は、三次、四次、五次などの高次多項式方程式を数値的手法で解いた。13世紀にはフィボナッチの三次方程式の解法に代表されるように、ヨーロッパにおける代数学の復興がなされた。一方でイスラム世界では数学が衰退し、それと入れ替わるようにヨーロッパで数学が盛んになっていった。その後、代数学はヨーロッパを中心として発展していった。

 近世以降

16世紀末のフランソワ・ビエトは、古典的学問分野としての代数学を創始した。

*フランソワ・ビエト(François Viète、1540年 - 1603年2月13日)…16世紀のフランスの法律家、数学者。フランスのフォントネー=ル=コント生。ポワチエの大学で法律を学ぶ。最高法院ブルターニュ管区判事、パリの最高法院の請願書審理官と王室顧問官などを歴任。1589年以降アンリ4世に仕えた。本職は弁護士、政治顧問官であるが、数学を研究。はじめて既知数の記号化を行い、記号代数の原理と方法を確立し、当時の代数学を体系化して「代数学の父」といわれている。このころスペインからの暗号文を解読したと言われる。時間の合間を縫っては三角法、球面三角法、一般係数の代数方程式などを研究した。
1637年のルネ・デカルトの『幾何学 (La Géométrie)』は解析幾何学の先駆けであり、近代的な代数的記法を導入したものである。
*ルネ・デカルト(René Descartes、1596年〜1650年)…フランス生まれの哲学者、数学者。合理主義哲学の祖であり、近世哲学の祖として知られる。1596年中部フランスの西側にあるアンドル=エ=ロワール県のラ・エーに生まれた。父はブルターニュの高等法院評定官であった。母からは、空咳と青白い顔色を受け継ぎ、診察した医者たちからは、夭折を宣告された。母は病弱で、デカルトを生んだ後13ヶ月で亡くなる。母を失ったデカルトは、祖母と乳母に育てられる。1606年、10歳のときイエズス会のラ・フレーシュ(La Flèche)学院に入学する。1585年の時点でイエズス会の学校はフランスに15校できており、多くの生徒が在籍していた。中でもフランス王アンリ4世自身が邸宅を提供したことで有名であるラ・フレーシュ学院は、1604年に創立され、優秀な教師、生徒が集められていた。イエズス会は反宗教改革・反人文主義(反ヒューマニズム)の気風から、生徒をカトリック信仰へと導こうとした。そして信仰と理性は調和する、という考え(プロテスタントでは「信仰と理性は調和しない」とされる)からスコラ哲学をカリキュラムに取り入れ、また自然研究などの新発見の導入にも積極的であった。1610年に、ガリレオ・ガリレイが初めて望遠鏡を作り、木星の衛星を発見したとの知らせに、学院で祝祭が催されたほどである。ただし、哲学は神学の予備学としてのみ存在し、不確実な哲学は神学によって完成されると考えられていた。デカルトは学院において従順で優秀な生徒であり、教えられる学問(論理学・形而上学・自然学)だけでなく占星術や魔術など秘術の類(たぐい)のものも含めて多くの書物を読んだ。そして、学問の中ではとりわけ数学を好んだ。カリキュラムの1つである哲学的討論においては数学的な手法を用いて相手を困らせた。のちにミニモ会士になり、終生の友人となるマラン・メルセンヌは、学院の先輩にあたる。好んだ数学に対して、神学・スコラ学の非厳密性、蓋然性は際立ち、それを基礎にした学院の知識に対して、懐疑が生まれることになる。しかし、この学院での教育や教師たちに、デカルトは終生感謝の念を持ち続けた。1614年、18歳で学院を卒業。その後ポワティエ大学に進み、法学・医学を修めた。1616年、20歳のとき、法学士の学位を受けて卒業。この後2年間は、自由気ままに生活したと考えられる。パリで学院時代の友人であるメルセンヌに再会し、偉大な数学者フランシス=ヴィエタの後を継ぐものと騒がれた数学者クロード・ミドルジと知り合うなど、交際を広げた。その後、学園を離れるとともに書斎で読まれるような「書物」を捨てた。そして、猶予のない決断を迫る「世間という大きな書物」の中に飛び込んでいくことを決意する。1618年、22歳のとき、オランダに赴きナッサウ伯マウリッツの軍隊に加わるが八十年戦争は1609年に休戦協定が結ばれており、実際の戦闘はなかった。マウリッツの軍隊は近代化されており、ステヴィン等の優れた数学者、技師などの起用によって、新兵器の開発も盛んであったことが知られていた。デカルトは自然科学者との交流を求めて、マウリッツの軍隊を選んだとも考えられる。1618年11月、オランダ国境の要塞都市ブレダにおいて、イザーク・ベークマンという、医者でありながら自然学者・数学者としての幅広い知識をもつ人物に出会う。ベークマンは、原子・真空・運動の保存を認める近代物理学に近い考えを持っておりコペルニクス支持者でもあった。ベークマンは青年デカルトの数学の造詣の深さに驚き、そしてデカルトは、感化されるところまではいかないものの、学院を卒業以来久しい知的な刺激を受けた。このときの研究の主題は、物理学の自由落下の法則・水圧の分圧の原理・三次方程式の解法・角の三等分のための定規の考案などである。処女作となる『音楽提要』はベークマンに贈られる。1619年4月、三十年戦争が起こったことを聞いたデカルトは、この戦いに参加するためにドイツへと旅立つ。休戦状態の続くマウリッツの軍隊での生活に退屈していたことも原因であった。フランクフルトでの皇帝フェルディナント2世の戴冠式に列席し、バイエルン公マクシミリアン1世の軍隊に入る。1619年10月、精神力のすべてをかけてこれから自分自身の生きる道を見つけようとウルム市近郊の村の炉部屋にこもる。そして11月10日の昼間に「驚くべき学問の基礎」を発見し、夜に3つの神秘的な夢をみる。パリでの交流1623年から1625年にかけて、ヴェネツィア、ローマを渡り歩く。旅を終えたデカルトはパリにしばらく住む。その間に、メルセンヌを中心として、亡命中のホッブズ、ピエール・ガッサンディなどの哲学者や、その他さまざまな学者と交友を深める。そして、教皇使節ド・バニュの屋敷での集まりにおいて初めて公衆の面前で自分の哲学についての構想を明らかにした。そこにはオラトリオ修道会の神父たちもいた。その創立者枢機卿ド=ベリュルはデカルトの語る新しい哲学の構想を理解し、それを実現させるべく努めることがデカルトの「良心の義務」だとまでいって、研究に取り組むことを強く勧めた。1628年、オランダ移住直前に、みずからの方法について考察して『精神指導の規則』をラテン語で書く(未完)。1628年にオランダに移住したが、その理由はこの国が八十年戦争によって立派な規律を生み出しており、最も人口の多い町で得られる便利さを欠くことなく、「孤独な隠れた生活」を送ることができるためであった。32歳より自己の使命を自覚して本格的に哲学にとりかかる。この頃に書かれたのが『世界論』(『宇宙論』)でありデカルトの機械論的世界観をその誕生から解き明かしたものであった。しかし、1633年にガリレイが地動説を唱えたのに対して、ローマの異端審問所が審問、そして地動説の破棄を求めた事件が起こると『世界論』の公刊を断念。1637年に『方法序説』を公刊する。そして1641年、45歳の時にパリで『省察』を公刊する。この『省察』には、公刊前にホッブズガッサンディなどに原稿を渡して反論をもらっておき、それに対しての再反論をあらかじめ付した。『省察』公刊に前後してデカルトの評判は高まる。その一方で、この年の暮れからユトレヒト大学の神学教授ヴォエティウスによって「無神論を広める思想家」として非難を受け始める。1643年5月、プファルツ公女エリーザベト(プファルツ選帝侯フリードリヒ5世の長女)との書簡のやりとりを始め、これはデカルトの死まで続く。エリーザベトの指摘により、心身問題についてデカルトは興味を持ち始める。1644年、『哲学原理』を公刊。エリーザベトへの献辞がつけられる。1645年6月、ヴォエティウスとデカルトの争いを沈静化させるために、ユトレヒト市はデカルト哲学に関する出版・論議を一切禁じる。1649年『情念論』を公刊。1649年のはじめから2月にかけて、スウェーデン女王クリスティーナから招きの親書を3度受け取る。そして、4月にはスウェーデンの海軍提督が軍艦をもって迎えにきた。女王が冬を避けるように伝えたにも関わらず、デカルトは9月に出発し、10月にはストックホルムへ到着。1650年1月から、女王のために朝5時からの講義を行う。朝寝の習慣があるデカルトには辛い毎日だった。2月にデカルトは風邪をこじらせて肺炎を併発し、死去した。クリスティーナ女王のカトリックの帰依に貢献したといわれる。

代数学の歴史上重要なもう1つの出来事は、16世紀中ごろに三次方程式および四次方程式の代数学的一般解が得られたことである。17世紀には日本の数学者である関孝和行列式の考え方を考案し、それとは独立にゴットフリート・ライプニッツが10年ほど遅れて同じ考え方に到達した。行列式は連立一次方程式を行列を使って解くのに使われる。
ライプニッツ(Gottfried Wilhelm Leibniz、1646年〜1716年)…ルネ・デカルトやバールーフ・デ・スピノザなどとともに近世の大陸合理主義を代表する哲学者である。主著は、『モナドジー』、『形而上学叙説』、『人間知性新論』など。1646年、ライプツィヒ大学哲学教授のフリードリッヒ・ライプニッツの子としてライプツィヒに生まれた。父は6歳の時に病没。1653年にはライプツィヒのニコライ学院に入学し1661年卒業。ライプツィヒ大学に入学し、数学や哲学を専攻。1663年6月には、哲学の学士論文をライプツィヒ大学に提出し、4か月間イエナ大学へと移って数学や法学、史学を学んだ。10月にはライプツィヒ大学に戻り、1664年には哲学の修士論文を提出し、修士となる。1666年にはニュルンベルク近郊にあるアルトドルフ大学に移って法学の博士論文を提出し、翌1667年には法学の博士となった。1668年からマインツ選帝侯に仕え、このマインツ居住期から有名な多数の文通が始まっている。1672年、マインツ選帝侯の命を受けてフランス王ルイ14世にエジプト遠征を勧めるべくパリに滞在したがこの提案にフランスはなんの関心も示さず、1673年には庇護者であるマインツ選帝侯の死によって失職。その後はパリで求職活動をしながらクリスティアーン・ホイヘンスなど多くの学者と交流を深め、1675年に微積分法を発見。1676年にはカレンベルク侯ヨハン・フリードリヒによって顧問官兼図書館長に任ぜられ、ハノーファーに移住。以後はその死までハノーファー宮廷に仕える事になった。1678年には領内のハルツ鉱山の改良を命じられ、1685年まで7年間取り組んだものの、結果的には大失敗に終わる。その後同年にハノーファー領主であるヴェルフェン家の家史編纂を命じられたがその死まで完成することはなかった。この調査の一環として、1687年から1690年までの間、南ドイツ・オーストリア・イタリアへと調査旅行に出かけている。1697年には「中国最新事情」を出版。1700年にはベルリンに招かれ、ベルリン科学アカデミーの設立に尽力し、初代会長に就任。1710年にはアムステルダムの出版社から『弁神論』を匿名で発表。1711年には神聖ローマ皇帝カール6世によって帝国宮中顧問官に任命され、1714年には『モナドジー』の草稿を書きあげたが、公刊されるのは彼の死後の1720年の事となる。1716年、ハノーファーにて死去。
18世紀のガブリエル・クラメールも行列と行列式について貢献した。ジョゼフ=ルイ・ラグランジュは1770年の論文 Réflexions sur la résolution algébrique des équations で根の置換について研究し、ラグランジュの分解式 (Lagrange resolvent) を導入した。
ラグランジュ(Joseph-Louis Lagrange, 1736年〜1813年)…数学者、天文学者オイラーと並ぶ18世紀最大の数学者といわれている。イタリア(当時サルデーニャ王国)のトリノで生まれ、後にプロイセン、フランスで活動。その著作『解析力学』はラプラスの『天体力学』と共に18世紀末の古典的著作となった。フランス革命後、ラプラス、アントワーヌ・ラヴォアジエらと共にメートル法の制定に取り組んだ。また、エコール・ポリテクニークの初代校長[要検証 – ノート]、元老院議員も務めている。ラヴォアジエの処刑について「彼の頭を切り落とすのは一瞬だが、彼と同じ頭脳を持つものが現れるには100年かかるだろう」と語ったと言う。またマリー・アントワネットの数学教師でもあり、「なぜ私が残されたのかわからない」と彼女やラヴォアジエの処刑を嘆き、一生苦しんだ。

パオロ・ルフィニは置換群について研究し、同時に代数方程式の解法についても研究した。

*パオロ・ルフィニ(Paolo Ruffini、1765年〜1822年)…イタリアの数学者、哲学者、医者。ヴァレンターノで生まれて数学と医学を学び、モデナ大学で数学の教授となった。また医者として発疹チフスの治療をおこなったが、その後モデナで没した。五次方程式が冪根を用いては解けないことの不完全な証明や、多項式の除算を効率的に行うルフィニのルールがある。また、群論や確率論や円の求積法に関する研究など。五次方程式が代数的に解けないことを証明する過程で、部分集合から部分群を発見し、方程式の問題を群論の問題としてアプローチした先駆者である。ラグランジュは並び替えの数学に興味を示さず、ルフィニが並び替えから群論を生み出し、群論と方程式の関連性を主張した。方程式と群論の橋渡しをした歴史的な偉業は大きい。

代数学においては、代数学と言えば抽象代数学を指すのが普通である。その一方でこうした方程式の研究は方程式論(代数方程式論)という代数学の古典的一分野として捉えられる様になっていく。

西洋近代でなければ生み出し得なかったものの一つに「座標」がある。それはx軸とy軸が互いに直交し、単位の長さの等しい数直線による標準的座標平面であり、正確には「カルデジアン座標平面Cartesian Coordinate Plane)」、あるいは「カルテジアン座標系Cartesian Coordinate System)」と呼ぶ。何しろ自然科学のみならず、社会科学や人文科学にも浸透し、利用していない分野を探す方が困難である。そしてルネ・デカルトやピエール・ド・フェルマーは座標の計算によって図形をめぐる命題を証明した。これが「解析幾何」である。

*ピエール・ド・フェルマー(Pierre de Fermat、1607年〜1665年)…フランスの数学者。「数論の父」とも呼ばれるが本職は裁判官であり、数学は余暇に行ったものである。1607年、南フランスのトゥールーズ近くの小さな農村ボーモン=ド=ロマーニュに生まれる。農民が空腹と貧困で一揆を起こしていた時期だった。1631年 - トゥールーズの請願委員となり、母の従姉妹のルイズ・ド・ロンと結婚。1648年 - トゥールーズ議会の勅撰委員となり、死ぬまで在職し続けた。1665年死去。

総合」も「解析」も古典ギリシャに由来するが、両者は正反対である。総合は解けていない問題を論証していく方法で、正統的な方法である。他方、解析は解けたと仮定して論証する方法で、おおっぴらにされず、裏技として使われてきた。

もちろん計算して証明するだけなら、ユークリッド幾何学の言い換えにすぎない。しかし、デカルト以後の数学者たちは計算の意味を理解し、そこから法則性を見出す。空間と量の関係に関する法則的認識や代数式と空間との結合関係へと進んでいく。なお、この場合の量は無限に分割可能な連続量である。

確かにデカルトの『幾何学』では問題に応じて基準となる直線が適宜設定され、座標軸が固定されていない。とはいえフェルマーはさらに慎重だった。2次元座標が生まれたら、3次元へと進みたくなるのが人情だが、フェルマーは面積と体積は単位が違うと無粋なことを言う。フェルマーの解析幾何は、そういう形で総合幾何を引きずっているのである。幾何と代数が癒着している。代数でありながら、記号には長さや面積など幾何がつきまとう。

数学は演繹の世界であるため、ある方法がうまくいくとわかると、拡張が容易である。そして記号化に躊躇がなかったデカルトこそが幾何と代数の馴れ合いを清算し、これにより代数は幾何に拘束されずに自由に四則演算ができるようになった事実は動かしがたい。なにしろデカルトは代数と幾何をトレードオフして解析幾何を創出した訳ではない。幾何と代数の曖昧な区分を明確化して独立させた上で、後者によって前者を考える方法論を提案し、数学の世界に「ある種の世俗化」をもたらしたからである。

総合幾何は数学名人の世界である。補助線を見つける洞察がないと、解けない問題がざらである。しかし座標平面において図形を計算による対象と見なせるなら、そうした洞察に依存する必要がない。
*ただし、角度の命題に関しては総合幾何が依然として有効である。解析幾何はその威力を失う。

解析幾何を通じて代数は空間と結びつき、新たな展開を始める。デカルト以前の16世紀、数の拡張や数概念の自立が起き、代数式の記号化が進む。当時の数学者は代数式x^2+1=0の解が実数でないことに気がついてしまう。法則に基づいて操作はできるが、虚数は彼らにとって無意味なものに映る。数えられない数とは何か、2乗して負の数になるものがどこにあるのか、これを記述して何の役に立つのかなど存在意義が見出せない。
統計言語Rにおける検証結果

#要するに以下で詰む。
x^2+1=0
x^2=-1
x=sqrt(-1)
sqrt(-1)
[1] NaN
警告メッセージ:
sqrt(-1) で: 計算結果が NaN になりました
#複素数概念を導入するとこうなる。
sqrt(-1+0i)
[1] 0+1i
#微分(Derivative)してみる。
D01<-expression(x^2+1)
D(D01,"x")
2 * x

座標が導入されると、数学者たちの悩みは解消される。空間における点は数の組として定義できる。点をプロットすればグラフになる。そのグラフ上のすべての点と座標の関係が方程式である。方程式y=x^2+1は放物線というグラフを示す。記号は未知数を示すのではなく変数である。変化を捉えることが可能になる。
統計言語Rにおける検証結果

#統計言語Rの不思議な挙動。幽霊でも見た気分。
plot(x^2+1,type="l",main="Parabola?")

f:id:ochimusha01:20190510103509p:plain

# 普通使うのはこの方法。予測した結果と全然異なる。
f0<-function(x){x^2+1}
plot(f0,type="l",main="Parabola?")

f:id:ochimusha01:20190510103722p:plain

#「放物線」感がないので表示領域調整。

plot(f0,type="l",main="Parabola",xlim=c(-1,1), ylim=c(0,2))

f:id:ochimusha01:20190510104355p:plain

plot(f0,type="l",main="Parabola",xlim=c(-6,6), ylim=c(0,32))

f:id:ochimusha01:20190510104447p:plain
「解析幾何学」といいつつ、案外人間の充実したパターン認識能力に依存してる側面があったりする?

空間を構築し、図形をその中に位置づける。それは空間から独立した図形がないことを意味する。空間の中で図形は変化できる。座標において図形はもはや不変ではない。変化するものとして捉えられる。代数形式の世界と空間表象の世界が結合する。変化する量に一つの表象を与え、変化現象を定式化することをもたらす。

解析幾何の登場はこのように数学を一変させる。デカルトは、その余勢を駆って、解析幾何の発想を拡張する。心身二元論もこのヴァリエーションである。従来、混合していた心身を分離し、精神によって身体を捉え直す。身体を動かすのは精神であり、空間の変化が示される。その際、身体が幾何、精神が代数のアナロジーとして理解できる。生命という未知数は変数として捉えられ、彼は『方法序説』の中で、その答えを脳の松果体に求めている。
*この部分については、色々言いたい事もあるのでそのうち追記する。

原文

デカルトこそ、資本主義的個人の生活を規定するカテゴリーから、統一的な世界像を打ちたてようと試みた、最初の人であった」。
フランツ・ボルケナウ『封建的世界像から市民的世界像へ』

西洋近代でなければ生み出し得なかったものの一つに「座標」がある。何しろ、正確には、西洋近代の権化である「デカルト主義」と付せられている。座標は数学上における最大の発明の一つである。西洋近代に否定的な人であっても、座標には抵抗感がない。また、中学生からフィールズ賞受賞者まで使うことができる。しかも、自然科学のみならず、社会科学や人文科学にも浸透し、利用していない分野を探す方が困難である。

数学は古代より世界各地で発展してきている。数学の歴史をたどると、近代に入るまで、ヨーロッパは必ずしも先進していなかったことがわかる。「パスカルの3角形」と言うが、宋の賈憲がこれに言及しており、111世紀以前に中国では発見されていたと推測される。ところが、中国をはじめ高度に数学が発達した地域でも、座標は生まれていない。

座標は解析幾何において成立する。登場以前の図形を扱う数学を「総合幾何」と呼ぶ。総合幾何は定義や公理から出発して命題を論理的に順次演繹していく。それに対し、ルネ・デカルトやピエール・ド・フェルマーは計算によって図形をめぐる命題を証明する。これが「解析幾何」である。

「総合」も「解析」も古典ギリシャに由来するが、両者は正反対である。総合は解けていない問題を論証していく方法で、正統的な方法である。他方、解析は解けたと仮定して論証する方法で、おおっぴらにされず、裏技として使われている。

解析幾何の際に、最大の武器となるのが座標である。それは、x軸とy軸が互いに直交し、単位の長さの等しい数直線による標準的座標平面であり、正確には「カルデジアン座標平面Cartesian Coordinate Plane)」、あるいは「カルテジアン座標系Cartesian Coordinate System)」と呼ぶ。

とは言うものの、デカルトの『幾何学』では問題に応じて基準となる直線が適宜設定され、座標軸を固定していない。しかし、やはり座標は「デカルト主義」でなければならぬ。

デカルトが記号化に躊躇がなかったのに対し、フェルマーは慎重である。2次元座標が生まれたら、3次元へと進みたくなるのが人情だが、フェルマーは面積と体積は単位が違うと無粋なことを言う。フェルマーの解析幾何は、そのため、総合幾何を引きずっている。幾何と代数が癒着している。代数でありながら、記号には長さや面積など幾何がつきまとう。

数学は演繹の世界であるため、ある方法がうまくいくとわかると、拡張が容易である。それを拡張できる。デカルトは幾何と代数の馴れ合いを清算する。これにより代数は幾何に拘束されずに自由に四則演算ができるようになる。解析幾何は代数を幾何から独立させたのであり、かくして「座標」には「デカルト主義」が冠せられる。

デカルトは代数と幾何をトレードオフして解析幾何を創出したわけではない。幾何と代数の曖昧な区分を明確化して独立させた上で、後者によって前者を考える方法論を提案している。それは数学の世俗化をもたらす。

総合幾何は数学名人の世界である。補助線を見つける洞察がないと、解けない問題がざらである。しかし、座標平面において図形を計算による対象と見なせるなら、そうした洞察に依存する必要がない。ただし、角度の命題に関しては総合幾何が依然として有効である。解析幾何はその威力を失う。

もちろん、計算して証明するだけなら、ユークリッド幾何学の言い換えにすぎない。しかし、デカルト以後の数学者たちは計算の意味を理解し、そこから法則性を見出す。空間と量の関係に関する法則的認識や代数式と空間との結合関係へと進んでいく。なお、この場合の量は無限に分割可能な連続量である。

解析幾何を通じて代数は空間と結びつき、新たな展開を始める。デカルト以前の16世紀、数の拡張や数概念の自立が起き、代数式の記号化が進む。当時の数学者は代数式x^2+1=0の解が実数でないことに気がついてしまう。法則に基づいて操作はできるが、虚数は彼らにとって無意味なものに映る。数えられない数とは何か、2乗して負の数になるものがどこにあるのか、これを記述して何の役に立つのかなど存在意義が見出せない。

座標が導入されると、数学者たちの悩みは解消される。空間における点は数の組として定義できる。点をプロットすればグラフになる。そのグラフ上のすべての点と座標の関係が方程式である。方程式y=x^2+1は放物線というグラフを示す。記号は未知数を示すのではなく、変数である。変化を捉えることが可能になる。

空間を構築し、図形をその中に位置づける。それは空間から独立した図形がないことを意味する。空間の中で図形は変化できる。座標において図形はもはや不変ではない。変化するものとして捉えられる。代数形式の世界と空間表象の世界が結合する。変化する量に一つの表象を与え、変化現象を定式化することをもたらす。

解析幾何の登場はこのように数学を一変させる。デカルトは、その余勢を駆って、解析幾何の発想を拡張する。心身二元論もこのヴァリエーションである。従来、混合していた心身を分離し、精神によって身体を捉え直す。身体を動かすのは精神であり、空間の変化が示される。その際、身体が幾何、精神が代数のアナロジーとして理解できる。生命という未知数は変数として捉えられ、彼は、『方法序説』の中で、その答えを脳の松果体に求めている。

デカルトミシェル・フーコーが『言葉と物』の中で「古典主義」と呼ぶ時代の精神を代表している。けれども、彼は、その主張の時代考証は割愛するが、歴史の断続性と人間の死の強調という戦略を際立たせるあまり、提示されるエピステーメーが必ずしも適切ではない。フーコー歴史学はすでに定着しており、その部分的批判をしたところでさしたる意義もないだろう。しかし、非西洋世界から見れば、西洋近代の特徴には変化の認識があるのに、それが言及されていないことは不満である。座標を生み出せたのは西洋近代だけであり、それをもう少し自覚すべきだ。

フーコーは、17世紀後半からの古典主義という「比較」の時代のエピステーメーを「タブロー」になぞらえている。博物学が示しているように、これは表の空間性を指し示している。当時の人々は事物を収集して分析を加え、中立的な記述で記録することに関心を寄せている。比較と分析を通じて事物を空間的な表に配置する。

古典主義のエピステーメーを説明する際に、デカルトにも言及している。彼によると、デカルトは、人間の精神の働きを比較によって操作されていると捉え、数と量ならびに秩序の比較を重視している。特に、秩序の比較が重要である。ある項から第二の項、さらに第三の項へと比較を通じて連続的に系統を形成する。デカルトは理性によって確実に認識できたものを連続的につなぎ合わせて学問の秩序を構築する。

しかし、これにはいささか飛躍がある。フーコーは空間と変化の関係を理解していない。座標により、記号が空間と結びつき、未知数から変数へと変わる。記号は変化の表象である。ところが、空間における変化の認識がないまま、フーコーの義論は空間性から時間性へと進んでしまう。彼は古典主義を述べた後、以降の歴史において生物学や経済学など時間経過に伴う線的変化に則った学問の展開を論じている。そこでは空間から時間への変換をうまく説明できていない。

フーコーはタブローの空間に生物を分類する博物学がそのまま生物学に発展したわけではないと指摘する。そのため、タブローが崩れて、生物が初めて誕生し、生物学が登場するとしてさまざまな実例を挙げている。しかし、これは苦しい。タブローを持ち出したため、議論に変化を組み入れることができていない。そのせいで、空間から時間への変換の際に変化が突然出現してしまう。

フーコーはタブローをその時代における認識の表象として活用している。その意味するところを解釈するが、発想から説き起こすことはない。彼は、「パノプティコン」もそうであるけれども、認知度が低いものを表象としてしばしば用いる。一方、17世紀の歴史を考察する際に、座標が重要なのは。その発想がそれを生み出した社会的・歴史的背景を表わしているからだ。カルテジアン座標系は古典主義時代が求めたものである。西洋近代の思想はよくデカルト主義に帰せられる。デカルトの出発点は解析幾何の成功である。西洋近代の認識の歴史を検討するのに、座標を避けることは適切でない。

座標から考察するならば、空間の変化が時間のそれに変換することを説明するのに、飛躍はない。座標によって方程式が空間に導入されている。後は微分方程式が考案されればよい。微積分の登場により、空間の変化が時間のそれへと変換される。さらに、デカルト座標に対応するのであれば、原点を固定する必要がない場合、一般化座標へと拡張できる。これにより微分方程式は可能性を広げていく。

非西洋世界から見て、西洋近代は変化の把握に熱心である。西洋近代の歴史におけるエピステーメーを考えるのであれば、変化の認識から検討する必要があろう。解析幾何以前は変化を捉えていない。小数の使用を始め数の普遍性の獲得、すなわち数の認識の時代である。17~18世紀の古典主義が空間の変化の認識であれば、18世紀末から20世紀初頭の「長い19世紀」は時間の変化の認識の時代になる。その後の現代では変化自身に認識が向かう。例えば、DNAの研究は生物における変化に関する考察である。こういった歴史区分もこれから検討される意義はある。

〈了〉
参照文献
赤木昭夫他、『科学と技術の歴史』、放送大学教育振興会、2001年
森毅、『数学の歴史』、講談社学術文庫、1988年
ミシェル・フーコー、『言葉と物』、渡辺一民訳、新潮社、1974年
デカルト著作集1』、青木靖三他訳、白水社、2001年

本格的検証には「科学と技術の歴史」「数学の歴史」の精読も必要そうですが「ミシェル・フーコーへの反駁」なる全体構造にある種の「20世紀らしさ」を感じます。ついでに以下も魚拓。

数の起源

要約

数とは何かという問題について歴史を遡ると、人類に最も大きな影響を与えたのは哲学者プラトンであり、「パイドン」の中で数学における基本的な概念である『等しさ』について、ソクラテスと弟子との対話として記述している。例えば等しく見える2つの石があったとしても、それは微妙に異なっており厳密には等しくない。人間が視たり触れたり出来る物の中には、完全に等しい物体は現実には存在しない。そこでソクラテスは「感覚のうちにあるすべての等しさはかの等しさそのものに憧れながら、それに不足している。」と語る。そうすると人間は『等しさ』そのものが何であるかという知識をどうやって得たのであろうか。続けてソクラテスは感覚によって知識を得たのでない以上、生まれる前に知識を得ていたのでなければならないと語り、だから学習とは想起に他ならないという。これを現代の生物学に基づいて考えると、生まれる前に得た知識とは遺伝的に与えられた知識、すなわちDNAに記録されたものであり、人間の神経系に最初から備わっているものと考えられる。さらに数学における基本的な概念は、『等しさ』そのものと類似した性質を持つので、その中で最も基本的と思われる概念について、生物学的な実体を探求してみる。

数の基本は自然数であるという点についてはあまり異論はないと考えられるが、無限に続く自然数の体系は文明の産物であり、未開の種族には2までしか数えられない種族も存在するし、文明社会における幼児も少ししか数えられない、それでも一対一の対応が理解できれば生活にそう不自由はしない。また言語能力がない人間の乳児や、人間以外の動物に関しても、数の能力は備わっていることが実験的によって示されている。こうした数の能力の基本は一対一の対応であるが、それは1の基本的性質によって成立すると考えられる。そうすると1の概念そのものこそが最も基本的と考えられる。

この1の概念についてプラトンは、「国家」の中で1について「この道に通じた玄人たちにしても、彼らは、1そのものを議論の上で分割しようと試みる人があっても、一笑に付して相手にしない。君が1を割って細分化しようとすれば、彼らの方はその分だけ掛けて増やし、1が1でなくなって多くの部分として現れることのけっしてないように、あくまでも用心するのだ。」と述べており、また「そのひとつひとつは、どれをとっても互いにまったく等しくて少しの差異もなく、それ自身の内に何ひとつ部分というものをもたない」とも述べている。これらから、1はお互いに等しく、分割できないものであると定義できる。

原文

数とは何かという問題について歴史を遡ると、人類に最も大きな影響を与えたのは哲学者プラトンであり、「パイドン」(1) の中で数学における基本的な概念である『等しさ』について、ソクラテスと弟子との対話として記述している。例えば等しく見える2つの石があったとしても、それは微妙に異なっており厳密には等しくない。人間が視たり触れたり出来る物の中には、完全に等しい物体は現実には存在しない。そこでソクラテスは「感覚のうちにあるすべての等しさはかの等しさそのものに憧れながら、それに不足している。」と語る。そうすると人間は『等しさ』そのものが何であるかという知識をどうやって得たのであろうか。続けてソクラテスは感覚によって知識を得たのでない以上、生まれる前に知識を得ていたのでなければならないと語り、だから学習とは想起に他ならないという。これを現代の生物学に基づいて考えると、生まれる前に得た知識とは遺伝的に与えられた知識、すなわちDNAに記録されたものであり、人間の神経系に最初から備わっているものと考えられる。さらに数学における基本的な概念は、『等しさ』そのものと類似した性質を持つので、その中で最も基本的と思われる概念について、生物学的な実体を探求してみる。

数の基本は自然数であるという点についてはあまり異論はないと考えられるが、無限に続く自然数の体系は文明の産物であり、未開の種族には2までしか数えられない種族も存在するし、文明社会における幼児も少ししか数えられない、それでも一対一の対応が理解できれば生活にそう不自由はしない(2)。また言語能力がない人間の乳児や、人間以外の動物に関しても、数の能力は備わっていることが実験的によって示されている(3)。こうした数の能力の基本は一対一の対応であるが、それは1の基本的性質によって成立すると考えられる。そうすると1の概念そのものこそが最も基本的と考えられる。

この1の概念についてプラトンは、「国家」(4)の中で1について「この道に通じた玄人たちにしても、彼らは、1そのものを議論の上で分割しようと試みる人があっても、一笑に付して相手にしない。君が1を割って細分化しようとすれば、彼らの方はその分だけ掛けて増やし、1が1でなくなって多くの部分として現れることのけっしてないように、あくまでも用心するのだ。」と述べており、また「そのひとつひとつは、どれをとっても互いにまったく等しくて少しの差異もなく、それ自身の内に何ひとつ部分というものをもたない」とも述べている。これらから、1はお互いに等しく、分割できないものであると定義できる。ただし問題を単純化するために、扱う数の範囲を自然数に限定する。

数の始まりには自然界にある物体を利用して一対一の対応によって数えたと思われ、小石は一般的である(5)。そこで例として、子供たちがそれぞれに小石を集めて、個数を競い合っているところを想定し、具体的に小石を数えることを考えてみる。これはよく考えると難しい問題を多く含んでいる。数える方法としては一対一の対応を用いるとして、最初に何をもって一個の小石とするかを規定する必要がある。まずは石の大きさだけに絞って考えてみる。極端に大きい石は、持ち運べないので除外されるべきであり、次に極端に小さい石も、砂粒と区別できなくなるので除外しなくてはいけない。ところが、その両方の境界をどこに定めるのかは、かなり恣意的な判断となり論争の元になる可能性がある。さらに難しい問題として、使用している石が二つに割れてしまった場合、どうするかという問題もある。それらを解決した後に、色や形態などの石による性質の違いをどうするかという問題もある。全てについて多数の子供の間で合意を得るのはかなりの時間を要するであろう。このように物体はダイヤモンドといえども、分割することが可能で大きさもまちまちであり、どこまでを1とするかの定義が困難である。

それに対して数える対象として人間を選んだ場合、上記のような困難はほとんどない。小さくても大きくても一人となり、男性でも女性でも老人でも子供でも一人である。病的状態を除くと、人間は自分自身が一人であるという意識を持っているのが普通であり、他の人間も自分と同じ一人と認識する。また一人の人間を分割すると、その人間は重傷を負い、体の一部を失って回復するか、死んでしまうかのどちらかであり、元来シャム双生児であった場合以外は、二人になるということはあり得ない。すなわち怪我をしても病気をしても、生きている限りは一人であり、中間の状態はあり得ない。この人間を一人とする認識は強固なもので、生後かなり早い時期に生じるように見える。最初は自分自身を一人と認識し、次に母親それから他の家族も、一人として認識するようになるのはないか。

次に子供の段階では人間以外にもペットの犬や猫なども一匹として認識する。さらに大人は広い範囲の動物や植物を一個の生命として認識する。このように人間は生命を1として認識する傾向があり、高等動物では個体を1として考えられる。しかしプラナリアのように分割しても再生する動物もあり、粘菌のように多細胞と単細胞の両方の時期のある生物もあり、個体を生命の単位とすると困難が生じる。また高等動物でも、マクロでは分割不能に見えるが、個々の細胞を単離して培養することは可能である。このように、全ての生物は細胞から構成されており、細胞は最小の自己複製単位であるので、学問的には細胞が生命の単位とされている。

全ての細胞が多くの特徴を共有している。全ての細胞はDNAに遺伝情報を収納しており、DNAから複雑な翻訳過程を経てタンパク質を合成する。この過程は全ての生物で共通である。また全ての細胞は細胞膜に包まれている。このような共通性から考えて、全ての生物は共通の祖先から分岐して進化したと考えられている。遺伝子からみても生物界の3大ドメインである細菌、古細菌、真核生物の中から、太古から保存されてきたと思われる239の遺伝子ファミリーが見いだされている。そうすると細胞は同じ祖先を持つという点ではお互いに等しいと考えられる。

次に細胞を分割する実験を考えてみる。細胞は分裂直前でない限り、分割して二つになることはなく、分割されて一部を失っても生存すれば、自己修復しようとする。ここで細胞がホメオスタシスを保とうとする時、その細胞は生命を持っていると考える。ホメオスタシスというのは細胞が一定の状態を保とうとすることをいう。例えば内部のpHや電解質濃度や浸透圧を一定に保とうとし、細胞の一部を破壊された場合は修復しようとする。ところが分割されて細胞が死んでしまうと修復されない。それは生命が無くなった状態であり、細胞は分解されてしまう。このように考えると、細胞には生命を持っている状態か、生命を失った状態しかなく、一個の生命そのものは分割不能である。そして全ての生命が互いに等しいとすれば、プラトンの1の定義は生命の定義となる。すなわち数の起源は生命そのものと考えられる。

参考文献
(1) プラトンパイドン岩田靖夫訳,岩波文庫(1998)
(2) B. Butterworth: The Mathematical Brain, Macmillan(1999)
(3) S. Dehaene: The Number Sense, Oxford University Press(1997)
(4) プラトン:国家, 藤沢令夫訳,岩波文庫(1979)
(5) ミッドハット・ガザレ:<数>の秘密,小屋良祐訳,青土社(2002)
(6) B. Alberts et al.: Molecular Biology of the Cell 4th ed., Garland Pub(2001)

こうした論調にしばしば登場する「」概念こそが、私がしばしば使うオイラーの原始量(Euler’s primitive sweep)概念およびビジネスモデル概念の大源流…