「諸概念の迷宮(Things got frantic)」用語集

本編で頻繁に使うロジックと関連用語のまとめ。

【マインドフルネス】無明(avidya)状態からの脱出口としての「消失(turn out)」?

ヒッピー運動は死んだ」「サイバーパンク運動は死んだ」「ハードボイルド運動は死んだ」。そう連呼するのは容易ですが、インターネット社会は割と厳格な統計社会でもあり、いともたやすく思わぬ続きを浮び上がらせます。「だがティモシー・リアリー博士Timothy Francis Leary, 1920年〜1996年だけは残った」。どういう事?

936夜『神経政治学』ティモシー・リアリー|松岡正剛の千夜千冊

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Q:「Turn on Tune in Drop out」とはどういう意味ですか?

Aティモシー・リアリー博士当人はこう説明しています。

  • "'Turn on' meant go within to activate your neural and genetic equipment. Become sensitive to the many and various levels of consciousness and the specific triggers that engage them. Drugs were one way to accomplish this end.
    Turn on」というスローガンで主張したいのは(「RAVEせよ(自分に嘘をついてでも盛り上げよ)」という話ではなく)「(自らを包囲する外界に対するさならるJust Fitな適応を意識して自らの神経を研ぎ澄まし、生来の素質を磨け」という事である。あらゆる状況に自らを曝せ。そして自分の意識がどう動くか細部まで徹底して観察し抜け。何が自分をそうさせるのか掌握せよ。ドラッグの試用はその手段の一つに過ぎない。
    *「ドラッグの試用はその手段の一つに過ぎない」…実際、当人も後に「コンピューターによる自らの脳の再プログラミング」の方が有効という結論に至っている。その意味では「汚れた街やサイバースペース(cyber space)への没入(Jack In)」も「デスゲーム(Death Game)に巻き込まれる事」も「異世界に転生する事」も手段としては完全に等価。

  • 'Tune in' meant interact harmoniously with the world around you - externalize, materialize, express your new internal perspectives. Drop out suggested an elective, selective, graceful process of detachment from involuntary or unconscious commitments.
    Tune in」というスローガンで主張したいのは(「内面世界(Inner Space)の完成を目指せ」という話ではなく)「新たに掴んだ自らの内面性を表現(Expression)せよ」という事である。自己感情を外在化し、具体化し、それでもなお自らを包囲し拘束する現実と「調和」せよ。
    *「Tune in」は「Turn in」とほぼ同義。ここで興味深いのはどちらにも「警察に届ける(問題解決を公権力あるいは専門家に委ね、後はその指示に従順に従う事)」というニュアンスが存在するという点。そして直感的には「in」の対語は「out」となるが「Turn out」とは「自らを包囲し拘束する現実」を「全面否定して引っ繰り返す」あるいは「諦念を伴って全面受容する」事。「Tune out」とは「黙殺を決め込む」事。だがあえてティモシー・リアリー博士はこうした選択オプションを嫌い「自らを包囲し拘束する現実」を突き抜けた向こうに「外側(Outside)」は存在しない(あるいはどれだけ無謀な進撃を続けても「現実」はどこまでも付いてくる)とする。無論(自らも専門家の一人でありながら)「問題解決を公権力あるいは専門家に委ね、後はその指示に従順に従う」という選択オプションも許容しない。マルコムX流に言うなら「「誰も人に自由、平等、正義を分け与える事は出来ない。それは自ら掴み取る形でしか得られないものなのだ(Nobody can give you freedom. Nobody can give you equality or justice or anything. If you're a man, you take it. )」、日本流に言うなら「誰にも人は救えない。それぞれが勝手に助かるだけだ」といった感じ?

  • 'Drop Out' meant self-reliance, a discovery of one's singularity, a commitment to mobility, choice, and change. 
    Drop Out」というスローガンで主張したいのは「(本当の自分自身であり続けるために現実社会から離脱せよ」という話ではなく「自立せよ」という事である。再発見された自らの個性に従った動性、選択、変化に専心せよ。
    *「Drop Out」は「Get off」とほぼ同義。ここで言いたいのはおそらく「解脱(Turn out)せよ」という事で、まさに「縁(自らを包囲し拘束する現実)からの解放」を主題とした原始仏教における「解脱」の原義はティモシー・リアリー博士の説明とぴったり重なる。ちなみに「Drop in」は「突然ぶらりと立ち寄る事」で、「オトラント城奇譚」作者として知られるホレス・ウォルポールが1754年に生み出した造語「セレンディピティserendipity、素敵な偶然に出会ったり、予想外のものを発見すること。また、何かを探しているときに、探しているものとは別の価値があるものを偶然見つけること)との関連が認められる。「Get on」は「大き力に便乗する事(そしてそれによって成功を収める事)」。

Unhappily my explanations of this sequence of personal development were often misinterpreted to mean 'Get stoned and abandon all constructive activity.'"

残念ながら、こうした私の自己発達に関する言及は「ドラッグでラリって建設的なすべての行動から遠ざかる」というように誤解されている。 

 「状態がカチッと切り替わる対象語を伴わない限り取らない限りon/offの前置詞はスイッチSwitchの切り替えを意味しない」かぁ。そして急激に勝手に視界が開けてしまう英語空間の迷宮…

仏教というか(源流を同じくするウシャニパッド哲学の発展形としてのヒンドゥー神学における「無明」の概念と、その状態からの脱却を意味する「解脱」の影響の濃さを感じます。今日の欧米社会における「マインドフルネスmindfulness)」概念の大源流?

真理を知らないという無知。サンスクリットでアビドヤーavidyā原始仏教においては〈四諦の理を,あるいは縁起の理を知らないこと〉が無明であると定義される。大乗においては〈真如の理を知らない〉あるいは〈有を無と見,無を有と見る〉と定義される。貪(とん)・瞋(しん)・癡(痴、ち)の三大煩悩のうちの癡に相当し,貪と瞋とがいわば情的な煩悩であるのに対して無明(=癡)は知的な煩悩であり,煩悩のうち最も根本的な煩悩である。

貪(とん) - Wikipedia

パーリ語およびサンスクリット語のローバ(lobha)、ラーガ(rāga)に由来する仏教用語であり、仏教が教える煩悩のひとつ。別名を貪欲(とんよく)、我愛といい五欲の対象である万の物を必要以上に求める心である。 貪り。心にかなう対象に対する欲求。あえて英訳するならgreed, sensuality, desire, attachment or excitement for sensory objects, lust, sexual desire, passionあたり。

このような心は、我(近代哲学でいう自我に近い)を実体的なものとして把握してしまう誤りから起こる。

瞋(しん、梵: vyāpāda 巴: byāpādaまたは梵: dveṣa 巴: dosa) - Wikipedia

仏教が教える煩悩のひとつ。瞋恚(しんに)ともいう。怒り恨みと訳され、我(自分)に背くことがあれば必ず怒るような心、害意、敵愾心、「自分がないがしろにされた」という思いである(自己愛憤怒)。憎しみ。嫌うこと、いかること。心にかなわない対象に対する憎悪。あえて英訳するならill-willあたり。

癡(ち、痴) - Wikipedia

パーリ語およびサンスクリット語Mohaモーハ)に由来する、苦痛や毒を示す概念であり、「妄想、混乱、鈍さ」を指す。。時にはAvidyāアビドヤー、無明)と同義である。別名を愚癡(ぐち、愚痴)、我癡ともいう。あえて英訳するならignorance, bewilderment, confusion, stupidity, delusion辺り。

癡は貪(ラーガ、貪欲、官能への愛着)、瞋(しん,自己愛憤怒)と共に、不毛なタンハー(渇望)につながる要素(三毒、三不善根)だとされて、それは生命の輪である十二因縁の一部となっている。そのシンボルは豚であり、チベットの六道仏画では中心に描かれている。

無明(avidya)の対概念は明(vidya)であって、決して多知多解(多くを知り、多くを理解できること)ではない。無明を除くために必要なのは光明であり、宗教とは、真っ暗な部屋に一条の光が差し込むと、忽ちその全体(存在のリアリティ)が露になるような体験と言えるかもしれない。

無明とは何も分からないことではない、すべて分かったつもりでいる心のことだ 宮城 顗しずか)師

車で運転中に道を間違えて迷子になることがあります。久しぶりに通る道で、昔の記憶と経験を頼りに進んで行ったら全く違う筋に入ってしまい、知らない別の場所に着いてしまった、という経験は皆さんにはないでしょうか。「道を間違った」と気がついたときにはもう既に遅く、かなり奥に進んでしまっていて自分がどこにいるのかも分かりません。迷子になった原因はただ一つ、「自分の記憶は正しい、自分は全て分かっている、自分は間違わない」という思い込みです。

迷っていることすら気が付いていない、迷っている自覚が無い状態の時が一番危険です。なぜならその様な人は他人の言葉にも耳を貸さずに、この道は正しいと自信満々で進んでいるのですから、たとえ「あなた迷っているよ」と他人から言われても、立ち止まったり、自分の道を振り返る事をしようとしません。自分の力のみを頼りにしていると、どんどん深い迷いへと堕ちてゆくばかりです。

無明」とは、文字通り「明かりがない、真っ暗闇で何も見えない」ということですが、この言葉は仏教語で、人間の迷いのことを指します。仰ぐべき光(教え)が無く、ただ自分の経験と知識だけを頼りにして生きている人の姿を言い表し、「私は何でも分かっている、教えられなくても知っている」と思う心が、迷いの根っこになっていると教えられています。人間の知恵を最大の依り所にしている現代人の姿を鑑みると、この様な「分かっている、分かったつもり」の人が多いのではないでしょうか。

さらに展開していくと、迷い苦しむ我が身の事実を、誤魔化さずにしっかりと見つめることのできるの眼をいただくということなのです。その眼が開かれた時にはすでに、迷いが迷いで無くなっているのです。私が迷っていたと気が付いたときには、その境遇から離れようとします。そして迷っていることを自覚出来た人は、道を詳しく知る人に尋ねようとするはずです。道を知るその人のお言葉によって、進むべき正しい方向が決められていくのでしょう。

数学の世界で「表現Expression)」といったら数式やグラフで示す事を意味します。接点が生じてくるのはその辺り?