「諸概念の迷宮(Things got frantic)」用語集

本編で頻繁に使うロジックと関連用語のまとめ。

【人間の認識可能な範囲外に存在する絶対他者】シュテレン(stellen=動員)の力学について。

陰謀論のイラスト

ここまでのまとめ。

およそ我々が「人間らしい」と感じる意識のあり方は、何処かで必ずある種の「幼児的万能感」や「魔術的意識」と結びついているものだが、それが如何なる挑戦(試練)にも遭遇せずに済んでいる状態が、コンピュータ工学上の用語でいう「割り込みも処理中のタスクも存在しない実際には存在しても特定の観点からは無視可能な状態のイベント待ち空ループ」である。

かかる世界観において時間はある意味、以下の4段階を経て進行し、再び空ループ状態に回帰する一連の「処理Process)」として規定される。

  • 絶対他者としての「問題意識そのもの」の台頭。
    *当初は極めて限定された条件下でのみ認識されるので、その瞬間を確定するのは難しい。

  • 問題として認識する事の拒絶や黙殺を含む)既存モデルへの問題意識の取り込み。

  • 既存モデルそのものに対する改変の遂行(混淆)。

  • 如何なる方法でも取り込めなかった内容を切り捨てる形での「問題意識そのもの」からの絶対他者性の剥奪。
    *たとえば同性婚合法化が(異性愛者同様に)同性愛者 / バイセクシャルの乱交派を切り捨てたのが典型例。

コンピューターの動作は「割り込みInterruptと、それが呼び出すそれ自体は始まりも終わりもあるが、非同期動作すなわち新たなイベント待ちループを立ち上げる事もある処理Process)」によってのみ構成されているが、人間の意識には「動作しながらの動作原理そのものの改変」という対処(Coping)も含まれるのでこうなる訳である。

英語で "Copy" という返事について -ミリタリー物のドキュメンタリーや- 英語 | 教えて!goo

後期ハイデガーいうところの「集-立Gestellシステム特定の意図に従って手持ちリソース全てを総動員しようとする体制)」は、大前提として「元来は始まりも終わりも存在せず、ただ多様で多態的な刺激への反応が無限に連鎖していくだけのとどのつまり元来は借方と貸方の釣り合いだけに注目する複式簿記の世界認識方法と重なる縁起世界」に特定の主体がどう対処(Coping)してくかという観点から問題処理を照明した内容である。
*世界をビリアードの様な連続線型写像(continuous linear function)あるいは有界(線型)作用素(bounded [linear] operator)の相互作用と解釈すれば通常のベクトル空間におけるような代数的な操作に加え、興味のあるベクトルを他のベクトルで近似することが可能となる。これが関数解析学における基本的な枠組みで、この様に「特定の理論に立脚する量の計算が、他の理論に立脚する量の計算で近似可能」と考える事が数理における最も重要な出発点となる。

そしてその結果、あらゆる「問題解決行動Problem-Solving Behavior)」は「(解決可能な問題以外を視野外に追いやる事で成立した仮想世界Virtual world)」上で繰り広げられる壮大な自慰(Masturbation)にすぎず、実際には常に「それまで見落としてきたパラメーター」や「アルゴリズムの誤謬」によって社会が危機に見舞われるリスクに直面している、という観点が浮上して来る。

ここで鍵として浮上して来るのがユージン・ウィグナー(Eugene Wigner)が「自然科学における数学の理不尽なまでの有効性についてThe Unreasonable Effectiveness of Mathematics in the Natural Sciences、1959年)」で言及された以下の定理。

第一の点は、〈数学の概念は、まったく予想外のさまざまな文脈のなかに登場してくる〉ということ。
The first point is that mathematical concepts turn up in entirely unexpected connections.

しかも、予想もしなかった文脈に、予想もしなかったほどぴったりと当てはまって、正確に現象を記述してくれることが多いのだ。
Moreover, they often permit an unexpectedly close and accurate description of the phenomena in these connections.

第二の点は、予想外の文脈に現れるということと、そしてまた、数学がこれほど役立つ理由を私たちが理解していないことのせいで、〈数学の概念を駆使して、なにか一つの理論が定式化できたとしても、それが唯一の適切な理論なのかどうかがわからない〉ということ。 
Secondly, just because of this circumstance, and because we do not understand the reasons of their usefulness, we cannot know whether a theory formulated in terms of mathematical concepts is uniquely appropriate.

この二つの論点をさらに言い直すと〕第一の点は〈数学は自然科学のなかで、ほとんど神秘的なまでに、途方もなく役立っているのに、そのことには何の合理的説明もない〉ということ。
The first point is that the enormous usefulness of mathematics in the natural sciences is something bordering on the mysterious and that there is no rational explanation for it.

第二の点は〈数学の概念の、まさにこの奇怪な有用性のせいで、物理学の理論の一意性が疑わしく思えてしまう〉ということ。
Second, it is just this uncanny usefulness of mathematical concepts that raises the question of the uniqueness of our physical theories.

こうした「数理モデルMathematical Models)」の特徴を「科学理論の客観性が保証される為には、その仮説が実験や観察によって反証される潜在性を備えていなければならない逆をいえば科学理論とは、現段階ではきちんと反証を退けられている相応に信頼性の高い仮説の集合である)」と要約したカール・ポパーKarl Raimund Poppr, 1902年〜1994年)の信念に立脚するのが「数理モデル信仰Belief in Mathematical Models)」となる。

そう、あくまで「信仰」なので別種の「信仰」によって反対される可能性なら秘めている。しかもそれは「反証が成立されない限り、その仮説を棄却しない」と考える合理主義に立脚する「弱い」信仰なので「真理は最終的に必ず一つでなければならない」と考える「強い」信仰に対して決定的抵抗力を有している訳でもない。

実際の「(とりあえず反証が見つからない限り特定数理モデルを排除しない数理モデル信仰」は「イスラム世界におけるガザーリーの流出論」や「ルネサンス時代の新アリストテレス主義」の様に「確かに真理は最終的には必ず一つでなければならないのかもしれないが、人間は絶対神と異なり無知蒙昧な存在に過ぎないので誤謬を犯しやすく、その結果としての多様的で多態的な真理の汪溢に我慢しなければならない」なる信念にも裏打ちされた相応に「強い」信仰体系なのだが、この事実はむしろ歴史的には、以下に述べる様な「絶対他者の皮を被った反証者」による攻撃への脆弱性として機能してきた。

  • 古典的ロマン主義におけるギリシャ悲劇的不条理こそが人間性の源泉なる思考様式…さらには(確実性を重視するあまり)状況の細分化に徹っし「世界の全体像そのもの」を俯瞰的に再構築しようとする姿勢に欠ける姿勢を(「伝統は代替案が見つかるまで放棄すべきではない」なる原則論に加え古典的ロマン主義の精神を継承した保守主義に突き上げられた。またイマヌエル・カントImmanuel Kant、1724年〜1804年)やオーギュスト・コントIsidore Auguste Marie François Xavier Comte、1798年〜1857年)の様に単純に「知識は統合されねばならないが、その基準として数理モデルだけは採用されてはならない」と考える人々も存在した。
  • 党争至上主義党利最優先主義)…諸勢力の拮抗状態だけが「究極の自由主義専制の徹底によってしか達成出来ない」ジレンマを緩和する状況への挑戦。マキャベリ起源にせよカール・シュミット起源にせよ最終的には(ウォーラステインの世界システム論(World-Systems Theory)いうところの)世界帝国を志向し、その全体統合の悲願が成就した暁には(「究極の自由主義専制の徹底によってのみ達成される」ジレンマが諸勢力の拮抗状態によって緩和される世界経済状態を喪失した代償として)以降、緩やかな衰退を余儀なくされる。後期ハイデガーいうところの「集-立Gestellシステム特定の意図に従って手持ちリソース全てを総動員しようとする体制)」に擬えるなら「システム完成以降は存続そのものが目的となり発展の可能性を失う」のである。
  • グノーシス主義独Gnostizismus、英Gnosticism)…この世界を「偽創造主が自分に都合良い形で創造した悪の世界」と考えるが故に、世界全体を貫く合理的説明を頭から受け付けない。
  • 公正世界仮説just-world hypothesis)または公正世界誤謬just-world fallacy)…真逆にこの世界には「神の摂理=勧善懲悪」が埋め込まれていると考えるが故に、それ以外の説明を頭から受け付けない。

これらに加え「絶対他者の仮面を被った反証者」は、フォルス(体制側暴力)に対するヴィオランス(反体制的抵抗)の一環として、相手側の弾劾に終始し自らへの言及を一切許さない立場を取る事があり、しかも政権奪取に成功し体制側に移行した後も自らの正当性を誇示する為にその姿勢を続ける事さえある(ナチズム論法 / スターリニズム論法)。こうした立場と対立してしまったら科学実証主義はもはやその原則を貫けなくなってしまうのである。

ところで後期ハイデガーいうところの「集-立Gestellシステム特定の意図に従って手持ちリソース全てを総動員しようとする体制)」は、同時に無数の「シュテレンstellen=動員)」の集合体でもあるとされるが、認知工学的にはこれに「(あえて特定対象に好んで飛びつく様な正の因子」だけでなく「(あえて特定対象を忌避したり、その認識を拒む様な負の因子」も混在していると想定した方が色々と都合が良い。

ロジェ・カイヨワRoger Caillois、1913年〜1978年)は遊びの基本的な定義を以下の通り記述している(『遊びと人間(Les jeux et les hommes、1958年)』p.40より)。

  1. 自由な活動…すなわち、遊戯が強制されないこと。むしろ強制されれば、遊びはたちまち魅力的な愉快な楽しみという性質を失ってしまう。
  2. 隔離された活動…すなわち、あらかじめ決められた明確な空間と時間の範囲内に制限されていること。
  3. 未確定な活動…すなわち、ゲーム展開が決定されていたり、先に結果が分かっていたりしてはならない。創意の工夫があるのだから、ある種の自由がかならず遊戯者の側に残されていなくてはならない。
  4. 非生産的活動…すなわち、財産も富も、いかなる種類の新要素も作り出さないこと。遊戯者間での所有権の移動をのぞいて、勝負開始時と同じ状態に帰着する。
  5. 規則のある活動…すなわち、約束ごとに従う活動。この約束ごとは通常法規を停止し、一時的に新しい法を確立する。そしてこの法だけが通用する。
  6. 虚構の活動…すなわち、日常生活と対比した場合、二次的な現実、または明白に非現実であるという特殊な意識を伴っていること。

カイヨワは以上の定義から逸脱した遊びは「堕落した遊び」であり、本来的な遊びではないと否定する。例えば、体育の授業で行われるスポーツもパチプロも彼らの考えからすれば逸脱した遊びであり、批判されるべきものだろう。体育の授業は強制されたものであるから「自由な活動」ではなく、パチプロはパチンコをすることで生計を立てているので「非生産的活動」から外れるからである。

 

カイヨワはさらに遊びについて「パイディア(Pidia)」と「ルドゥス(Ludus)」という用語を発明することで遊びの本質を言い表した。

  • パイディアPidia)…即興と歓喜の間にある、規則から自由になろうとする原初的な力
  • ルドゥスLudus)…恣意的だが強制的でことさら窮屈な規約に従わせる力

カイヨワはこの2つの力を極として位置付けられた活動が遊びであるとした。つまり、遊びとは自由奔放でありながら何か見えない規則に縛られている、一見矛盾した行動であると位置付けたのである。そしてその濃淡によって以下の4つの区分を生み出した。

  1. アゴAgon)」…すべて競争という形のとる一群の遊び(p.46)。
  2. アレアAlea)」…遊戯者の力の及ばぬ独立の決定の上に成りたつすべての遊び(p.50
  3. ミミクリMimicry)」…参加者がその人格を一時的に忘れ、偽装し、捨て去り、別の人格をよそおう遊び(p.55
  4. イリンクスIlinx)」…眩暈の追求にもとづくもろもろの遊び(p.60

カイヨワの遊び理論の面白いところは、以上の遊びの定義と分類を使って社会を支配する力を解き明かそうとする点である。その立場によれば人類の歴史は「ミミクリとイリンクスの時代」と「アゴンとアレアの時代」の2つの時代に分けることができるという。 ミミクリとイリンクスの時代とは、つまり呪術や幻覚が支配する時代である。社会の支配者は仮面をつけたり(=ミミクリ)、薬草などによって錯乱したり(=イリンクス)することで神や精霊の代行者となり社会をコントロールしようとする。日本で言えば卑弥呼の時代などを思い浮かべられる。人類はこのような呪術と幻覚に支配された文明から、徐々に法律による規制や市場での競争を通じて社会をつくりあげようとする。 つまり、ミミクリとイリンクスの時代からアゴンとアレアの支配する社会へと人類は移行するのである。

しかしながら、ミミクリとイリンクスは人類社会から消失したわけではない。 ミミクリは演劇という形で、イリンクスはサーカスといった形で生き残っている。 ときにこうした遊びは反社会的な行動へと変化する。 そして、社会の片隅で人間を魅惑し、再び社会を支配しようとしている。 その転覆が成功したとき、それは革命といった形で社会に現れるのである。

 後期ハイデガーの「シュテレンstellen=動員)」論のうち「正の因子」の動作はこの辺りで説明出来そう。一方「負の因子」の動作は以下辺りが出発点に出来そうとも。

仏語。生(生まれること)・老(老いていくこと。体力、気力など全てが衰退していき自由が利かなくなる)・病(様々な病気があり、痛みや苦しみに悩まされる)・死(死ぬことへの恐怖、その先の不安)の四苦に、愛別離苦あいべつりく、愛する人と生き別れる苦)・怨憎会苦(おんぞうえく、恨み憎む人と会う苦)・求不得苦(ぐふとくく、求めるものが得られない苦)・五陰盛苦ごおんじょうく、 五蘊(人間の肉体と精神)が思うがままにならないこと)を加えた、八つの苦しみ。

」との邂逅

シッダッタは、宮殿で何の不自由もない暮らしをしていましたが、何の不自由もないことでかえって退屈をし、ある日、馬車に乗って散歩に出かけました。

シッダッタがお城の東の門から出ていくと、今まで見たことのない、腰の曲がった人を見かけました。

シッダッタが「あれは何だ?」と御者(ぎょしゃ)(=馬を扱う人)に尋ねると、「あれは老人です」と御者は答えました。

御者はさらに「人として生をうけた者は、いつかあのような姿になります」とシッダッタに伝えました。

すると、シッダッタは衝撃を受けて、城の中へ戻っていってしまいました。

 「」との邂逅

またある日、シッダッタは、今度は南の門から出ていきました。すると、今まで見たことのない、やせ衰えてうずくまる人を見かけました。

シッダッタは「あれは何だ?」と御者に尋ねます。「あれは病人です」と御者は答えました。

御者はさらに「人として生をうけた者は、あのような姿になることを避けることができません」とシッダッタに伝えました。

シッダッタは再び衝撃を受けて、城の中へ戻っていってしまいました。

」との邂逅 

さらに別のある日、シッダッタは再び散歩に出かけようと、今度は西の門から出ていきました。すると、多くの人が集まる中に横たわっている人がいました。

シッダッタは「あれは何だ?」と御者に尋ねました。「あれは死人です」と御者は答えました。

御者はさらに「人として生をうけた者は、いずれ、あのような姿になるのです」とシッダッタに伝えました。

シッダッタは、やはり衝撃を受けて、城の中へ戻っていってしまいました。

」との邂逅 

シッダッタは、「老人」「病人」「死人」を見て、これは、この自分も避けることができないことなのだと感じ、何とも言い表し難い不安に苛まれました。

そして、またある日、シッダッタは馬車に乗って、今度は北の門から散歩に出かけました。すると、清々しい、神々しい人が立っていました。

シッダッタは、今度は御者ではなく、その人自身に「あなたは何をしている人か」と尋ねました。するとその人は「出家修行者です」と答えました。

シッダッタは、この出家修行者の凛とした姿に、自分の理想とする姿を感じ、感動を覚えながら、城に戻っていきました。

出家」という事

シッダッタは「人はなぜ生まれ、老いて、病んで、死んでいくのかを問わずにいられない苦しさ」、そして「生まれてきた以上は決して避けることのできない老い、病、死、それに対する不安」、これらを克服するためには「出家修行者になるしかない」と確信して、出家を決意し、準備を整え、29歳の時に出家しました。これが、シッダッタ(さとりを開く前のお釈迦様)の、出家を決した経緯を伝える「四門出遊」というお話です。

 
人が避けることのできない四つの苦しみ、すなわち「生まれること、老いること、病気になること、死ぬこと」は「生老病死しょうろうびょうし)」と言われ「人間の最大の苦悩」とも言われています。

もし、これらが「人間の最大の苦悩」であり、その克服が可能であるとすれば「日常生活の中で不本意に生じる小さな苦悩も、大きな苦悩も」克服は可能なのだと私は思います。ただ、ここで私が思っている「克服」というのは「もう悩まされることのない、自分なりの“納得”」というようなものです。

また、「四門出遊」のお話の最後にありましたように「お釈迦様」は(決意をしてすぐにではなく)「準備を整え」てから、出家されていますね。きっとこれも必要なのだと思います。

そして、29歳の時に出家し、35歳でさとりを開いたということは「お釈迦様」は、6年間さまよっていたことになりますね。この6年間は(ごくごく簡単な説明ではありますが、)まず、瞑想の道を選びますが、やがて、その道を捨て、次は、苦行の道を選びますが、やはり、その道を捨て、再び、瞑想の道を選び、ついに、さとりを開く、という内容でした。

私はここに「克服というものは、それほど簡単に手に入るものではないこと」や「あきらめない人にだけ、あきらめなかったからこその結果がある」といったことを感じます。そして何より、「人生を逃げないことの尊さ」を感じます。

 後期ハイデガーの「シュテレンstellen=動員)/集-立Gestellシステム特定の意図に従って手持ちリソース全てを総動員しようとする体制)」論に引きつけて論じてみましょう。

  • 宮殿で何の不自由もない暮らしをしてきたシッダッタの認識空間は、初期状態においては限りなく「静謐割り込みも処理中のタスクも存在しない実際には存在しても特定の観点からは無視可能な状態のイベント待ち空ループ」に近い状態にあった。ただし「退屈」なる「正のシュテレン後押し型)」がその状態のまま留まる事を許さなかったのである。
    *先に述べた4段階のさらに前段階に当たる。
  • ただ単に「」「」「」といった「負のシュテレン」と邂逅しただけでは、一般人の様にそれから目を背ける事しか思いつけなかった。
    *先に述べた4段階の2段階目。そこでも述べた様に1段階目は直接認識される事はない。
  • 」なる「正のシュテレン理想の模倣対象)」と邂逅すると、いよいよ「集-立Gestellシステム」としての本格稼働が始まる。その解決が何処まで「情動焦点型コーピング」的で、何処まで「問題焦点型コーピング」的だったかについては諸説あるが、いずれにせよ「静謐割り込みも処理中のタスクも存在しない実際には存在しても特定の観点からは無視可能な状態のイベント待ち空ループ」への回帰には成功したのである。
    *先に述べた4段階の3段階目。仏典には4段階目が如何なる形を取ったか明記されていない。

正のシュテレン」としてミミクリ(Mimicry)型の「理想の模倣対象との邂逅」、「負のシュテレン」として「」「」「」が登場してきました。ただ「退屈」を「後押し型の正のシュテレン」と規定したのはいかにも苦しい…まだこの方面いついては色々検討が必要な様なのです。